街とその不確かな壁

村上春樹



13



「ときどき、こうなってしまうの」、きみは涙を白いハンカチーフで拭きながらそう言う。そのときには、涙はもうほとんどとまっていたのだけれど(涙の供給が尽きたのだろうか?)。ぼくらはまだ公園の藤棚の下で、ベンチに並んで座っている。それがその朝きみが最初に口にした言葉だ。

「心がこわばりついてしまう」

 ぼくはやはり黙っている。何をどう言えばいいのか?

 きみは言う。「そうなると、自分ではどうすることもできない。どこかにしがみついて、時間をやり過ごすしかない」

 ぼくはきみが伝えようとしていることを、少しでも理解しようと努める。

 心がこわばりついてしまう

 それが具体的にどんな状態を意味するのか、想像がつかない。身体がこわばるのは理解できる。たぶん金縛りのようなものだろう。しかし心はどのようにこわばるのだろう?

「でも、今回のそれはなんとかやり過ごせたんだね?」、ぼくはとりあえずそう尋ねてみる。

 きみは微かに肯く。

「今のところたぶん」ときみは言う。「まだ揺り戻しみたいなのはあるかもしれないけど」

 ぼくらは五分か十分、無言のうちに「揺り戻し」を待つ。家のいちばん太い柱につかまって、今にも来るかもしれない余震に備える人のように。きみの肩はぼくの手の中でゆっくりと上下している。でもそれはもう戻ってこないみたいだ。おそらく。

「これから何をしよう?」とぼくは少しあとになってきみに尋ねる。

 今日はまだ始まったばかりだ。空は青く晴れ上がっている。これからどこだって好きなところに行けるし、なんだって好きなことができる。決まった予定は何ひとつない。いくつかのささやかな現実的制約があるにせよ(たとえばぼくらはお金を十分には持ち合わせていない)、それでもぼくらは基本的に自由の身だ。

「しばらくこのままにしていていい? 少し気持ちが落ち着くまで」ときみは言う。最後の涙の痕跡を拭き取り、ハンカチーフを小さく折り畳んでスカートの膝の上に置く。

「いいよ」とぼくは言う。「しばらくこうしていよう」

 やがてきみの身体から力みが抜けていく。浜辺で潮がだんだん引いていくみたいに。衣服(白いブラウスだ)の上から、ぼくはきみの身体のそんな変化を感じ取る。ぼくはそのことを嬉しく思う。自分が僅かでも役に立てたような気がする。

「ときどきそんな風になるの?」とぼくは尋ねる。

「そうしょっちゅうではないけど、ときどき」

「そうなると、いつもああしてあちこち歩き回るの?」

 きみは首を振る。「いつもというのじゃない。部屋でじっとしていることの方が多いと思う。一人で閉じこもって、家族の誰とも口をきかないの。学校にも行かないし、ご飯も食べない。何もせず、ただ床に座り込んでいるだけ。ひどいときにはそれが何日も続く」

「何日もまったく食事をしないわけ?」、それはぼくにはとんでもないことに思える。

 彼女は肯く。「ときどき水を飲むだけ」

「そんな風になるのには何か原因があるの? たとえば何か嫌なことがあって気持ちが落ち込むとか」

 きみは首を振る。「とくに具体的な原因みたいなものはないの。ただ純粋にそうなってしまうだけ。大きな波のようなものが、頭の上から音もなくかぶさってきて、それに呑み込まれて、心が固くこわばってしまう。それがいつやってきて、どれくらい続くのか、自分では計ることができない」

「そういうのって不便かもしれない」とぼくは言う。

 きみは微笑む。厚い雲間から僅かに日差しがこぼれるように。「そうね、たしかに不便かもしれない。そんな風に考えたことは一度もなかったけど、言われてみればたしかに」

「心がこわばる?」

 きみはそれについて考える。「つまりね、心の奥の方で紐がぐしゃぐしゃにもつれて、固まってほどけなくなる──みたいなことなの。ほどこうとすればするほど、余計にもつれて固まっていく。ぜんぜん収拾がつかないくらいこちこちに。そういうことって、あなたにはない?」

 ぼくにはそういう経験はないみたいだ。ぼくがそう言うと、きみは頭を小さく動かす。

「あなたのそういうところがわたしは好きなんだと思う」

「頭の中がぐしゃぐしゃにもつれないところが?」

「そうじゃなく、分析とか忠告とか、そんなことなしに黙ってわたしを支えてくれるところが」

 ぼくが余計なことを言わないのはただ、きみのそんな「心のこわばった」状態をどう解釈すればいいのか、それについてどんな忠告をし、どんな意見を言えばいいのか見当もつかないからだ。しかしもしそれでいいのなら、何も言わずにただきみの肩を抱いているのは、ぼくにとって不都合なことでも、居心地の悪いことでもない。むしろその方がずっとありがたいかもしれない。しかしそれはそれとして、最小限の実際的な質問は必要とされるだろう。

「それで……その今日の波のようなものは、いつ頃やってきたの?」

「今朝、目覚めたとき」ときみは答える。「東の空がだんだん明るくなってきたころ。それで、今日はもうあなたには会えないと思った。ていうか、身体そのものが動かなかった。手の指を動かすことさえできなかった。服のボタンもとめられない。そんな状態ではあなたと顔を合わせられない」

 ぼくは黙ってきみの話に耳を傾けている。

「それからずっと布団をかぶって横になっていたの。どこかに跡形もなく消えてしまいたいと願いながら。でも約束の時間がやってきたとき、思ったの。あなたに公園で待ちぼうけさせておくわけにはいかないと。それで力を振り絞って立ち上がり、ブラウスのボタンをなんとかはめて、走ってここまでたどり着いたの。もうあなたはいなくなっているかもしれないと思いながら……髪をとかす時間さえなかった。ねえ、わたしずいぶんひどい顔をしているでしょう?」

「いや、とても素敵だよ。いつもと同じくらい」とぼくは言う。それは偽りのない意見だ。きみは隅から隅まで素敵だ。いつもと同じように。いや、いつも以上に。

「いや、いつも以上に」とぼくは付け加える。

 噓よ、ときみは言う。

 噓じゃない、とぼくは言う。

 きみはしばらく沈黙している。それから言う。

「小さいときから、こんな風にとっても面倒くさい性格なの。だからわたしのことを好きになってくれる人なんてひとりもいなかった。わたしを受け入れてくれる人もいなかった。亡くなったおばあさんだけを別にして、ただのひとりも。でもおばあさんはもう死んじゃったし、死んでしまった人のことは、正直言ってよくわからない。おばあさんはただ何か思い違いをしていたのかもしれない」

「ぼくはきみのことが好きだよ」

「ありがとう」ときみは言う。「そう言ってくれるのはとても嬉しい。でもそれはきっと、まだわたしのことを知らないからよ。もしわたしのことをもっとよく知れば──」

「もしそうだとしても、きみをもっとよく知りたい。いろんなことを、あらゆることを」

「中には、知らない方がいいこともあるかもしれない」

「でも誰かを好きになったら、相手のことをどこまでも知りたいと思うのは自然な気持ちだよ」

「そしてそれを引き受けるの?」

「そうだよ」

「ほんとうに?」

「もちろん」

 十七歳で、恋をしていて、それは五月の真新しい日曜日で、当然ながらぼくは迷いというものを持たない。

 きみはスカートの膝の上に置いた白い小さなハンカチーフを手に取り、もう一度目もとを拭う。新しい涙が頰を伝っているのが見える。微かに涙の匂いがする。涙の匂いってちゃんとあるんだ、とぼくは思う。それは心を打つ匂いだった。優しく魅惑的で、そしてもちろんほのかに哀しい。

「ねえ」ときみは言う。

 ぼくは黙って続きを待つ。

「あなたのものになりたい」ときみはささやくように言う。「何もかもぜんぶ、あなたのものになりたいと思う」

 息が詰まって何も言えない。ぼくの胸の奥で誰かがドアをノックしている。急ぎの用件があるらしく、強固な拳で何度も何度も。その音が空っぽの部屋に硬く大きく響き渡る。心臓が喉元までせり上がってくる。ぼくは空気を大きく吸い込んで、それをなんとか元の位置に押し戻そうとする。

「隅から隅まであなたのものになりたい」ときみは続ける。「あなたとひとつになりたい。ほんとうよ」

 ぼくはきみの肩をより強く抱き寄せる。誰かがまたブランコに乗っている。その金具が軋む音が、一定の間合いを置いて耳に届く。それは現実の音というよりは、ものごとの別のあり方を伝える比喩的な信号のように聞こえる。

「でも急がないでね。わたしの心と身体はいくらか離れているの。少しだけ違うところにある。だからあとしばらく待っていてほしいの。準備が整うまで。わかる?」

「わかると思う」とぼくはかすれた声で言う。

「いろんなことに時間がかかるの」

 ぼくは時間の経過について考えを巡らせる。ブランコの規則的な軋みに耳を澄ませながら。

「ときどき自分がなにかの、誰かの影みたいに思えることがある」ときみは大事な秘密を打ち明けるように言う。「ここにいるわたしには実体なんかなく、わたしの実体はどこか別のところにある。ここにいるこのわたしは、一見わたしのようではあるけど、実は地面やら壁に投影された影法師に過ぎない……そんな風に思えてならない」

 五月の日差しは強く、ぼくらは藤棚の涼しい影の中に座っている。実体が別のところにある? それはいったいどういうことなのだろう?

「そんな風に考えたことってない?」ときみは尋ねる。

「自分が誰かの影法師に過ぎないって?」

「そう」

「そんな風に考えたことはたぶん一度もないと思う」

「そうね、わたしがおかしいのかもしれない。でも、そう思わないわけにはいかないの」

「もしそうだとして、つまりきみが誰かの影法師に過ぎないとして、じゃあ、きみの実体はどこにいるんだろう」

「わたしの実体は──本物のわたしは──ずっと遠くの街で、まったく別の生活を送っている。街は高い壁に周囲をかこまれていて、名前を持たない。壁には門がひとつしかなく、頑丈な門衛に護られている。そこにいるわたしは夢も見ないし、涙も流さない」

 それが、きみがその街のことを口にした最初だった。ぼくはもちろん何のことだかまるで理解できなかった。名前を持たない街? 門衛? ぼくは戸惑いながら尋ねる。

「ぼくはそこに行くことができるの? 本物のきみがいる、その名前を持たない街に」

 きみは首を曲げ、ぼくの顔を間近に見つめる。「もしあなたが本当にそれを望むなら」

「街の話をもっとくわしく聞きたいな。そこがどんなところなのか」

「この次に会ったときにね」ときみは言う。「今日はその話をまだしたくない。もっと違う話をしていたいの」

「いいよ。時間をかけよう。ぼくは待てるから」

 きみは小さな手でぼくの手を握りしめる。約束のしるしのように。

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