街とその不確かな壁

村上春樹



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 その川の流れが入り組んだ迷路となって、暗黒の地中深くを巡るのと同じように、私たちの現実もまた、私たちの内部でいくつもの道に枝分かれしながら進行しているように思える。いくつかの異なった現実が混じり合い、異なった選択肢が絡み合い、そこから総合体としての現実が──私たちが現実と見なしているものが──できあがる。

 もちろんこれはあくまで私の個人的な感じ方、考え方に過ぎない。「現実はこの現実ひとつきり、他にはない」と言われれば、そのとおりかもしれない。沈みかけた帆船の乗組員が船のメイン・マストにしがみつくみたいに、私たちはたったひとつの現実に必死にしがみついているより他にないのかもしれない。いやも応もなく。

 しかし私たちは、自分たちの立つ堅固な地面のその下部、地中の迷路を巡る秘密の暗闇の川について、どれほどのことを知っているだろう? それを実際に目にしたものが、それを目にしてこちら側に戻ってこられたものが、いったいどれだけいるだろう?


 暗く長い夜、壁まで延びる自分の黒い影を、私はいつまでもじっと見つめている。その影はもうひとことも言葉を語らない。私が何かを語りかけても、何かを問いかけても、それに応じることはない。私の影は元あった、無言の平たい影法師に戻っている。それでも私はつい自分の影に向かって語りかけてしまう。私はしばしば彼の知恵を必要とし、彼の励ましを必要とするからだ。しかし今のところ、問いかけに対する答えはない。

 私の身にいったい何が起こったのだろう? 私は今、なぜここにいるのだろう? 私にはそのことが──今こうして私を含んでいる「現実」のありようが──どうしても呑み込めなかった。どのように考えても、私はここにいるべきではないのだ。私ははっきり心を決め、影に別れを告げ、あの壁に囲まれた街に単身残ったはずなのだ。それなのにどうして私は今、この世界に戻っているのだろう? 私はずっとここにいて、どこにも行かず、ただただ長い夢を見ていただけなのだろうか?


 とはいえ、少なくとも今の私には影がある。私のこの身体には影がくっついている。私が行くところ、どこにでも影が付き添ってくる。私が立ち止まれば、影も立ち止まる。そしてその事実は私を落ち着かせてくれる。私はその事実に感謝する。自分と影とが文字通り一心同体であることに。そんな気持ちは、一度影を失ったことのある人間にしかわからないはずだ。おそらく。


 そして眠れない夜、私は壁に囲まれたその街で目にしたこと、そこで自分の身に起こったこと、それらをひとつひとつ鮮やかに克明に頭に蘇らせていった。

 図書館の部屋をほのかに照らすなたね油のランプのことを、小さなすり鉢で薬草を丁寧につぶしている君の姿を、石畳の通りに蹄の音を響かせる気の毒な単角獣たちのことを、風に静かに揺れる中州のかわやなぎの姿を、私は思い浮かべた。朝と夕に門衛の吹き鳴らす角笛の音、姿の見えぬなきどりの哀しげな訴求、夜ごと君と一緒に歩いた川沿いの道、古い敷石、口の中でとろける甘い林檎菓子。両手で包むようにして温めたいくつもの古い夢たち。深い溜まりのある草原に降りしきる真っ白な雪。街を隙間なく取り囲む、無表情な煉瓦の高い壁。どのような刃物も、そこにかすり傷ひとつつけることはできない。そして何にも増して、簡素で清潔な衣服を身に着けた一人の美しい少女の姿。それは私に約束されていたはずの光景だ。その約束は果たされたのか? あるいは果たされなかったのか?


 私は何らかの力によって、ある時点で二つに分かたれてしまったのかもしれない。そう考えてしまうことがある。そしてもうひとりの私は今もあの高い壁に囲まれた街にいて、そこでひっそりと日々を送っているのかもしれない。毎夕あの図書館に通い、彼女の作ってくれた緑色の薬草茶を飲み、分厚い机の前でひたすら古い夢を読み続けているのかもしれない。

 それがいちばん筋の通った、まっとうな推測であるように思えてならない。あるポイントで私は二者択一の選択肢を与えられた。そして今ここにいる私は、こちらの選択肢を選んだ私なのだ。そしてもう一方で、あちらの選択肢を選んだ私がどこかにいる。どこか──おそらくは高い煉瓦の壁に囲まれた街に。


 こちらの「現実の世界」にあって、私は中年と呼ばれる年齢にさしかかった、これという際だった特徴を持たない一人の男性だ。私はもうあの街にいたときのような、とくべつな能力をそなえた「専門家」ではなくなっている。眼を傷つけられてもいないし、古い夢を読む資格を与えられてもいない。巨大な社会を構成するいくつものシステムのひとつ、その歯車のひとつに過ぎない。それもずいぶん小さな、交換可能な歯車だ。私はそのことをいくらか残念に思わないわけにはいかない。


 ここに戻ってきてから──おそらく私は戻ってきたのだろう──しばらくのあいだ、私は何ごともなかったように毎朝電車に乗って会社に通勤し、いつもどおり同僚たちと簡単な挨拶を交わし、会議に出て然るべき(しかしそれほど役に立つとも思えない)意見を述べ、あとはおおむね自分の机の前で、コンピュータに向かって作業をする。メールで全国の支店に指示を出し、先方から様々な要請を受ける。ときどき会社の外に出て、書店の責任者や出版社の担当者と会って打ち合わせをする。それなりの経験を要することではあるが、とくに難しい仕事ではない。ただの小さな定型の歯車だ。


 そしてある朝、私は上司に辞職願を出す。これ以上この仕事を続けていくわけにはいかない。考え抜いた末に、そう心を決める。今ここにある生活のレールからいったん心身を外さなくてはならない──たとえそれに代わる新しいレールが見当たらなかったにしてもだ。

 上司は突然の申し出に驚愕する。それまで私はそんな気配をまったく見せなかったから。そして彼は、私がライバルの会社にヘッドハンティングされたのではないかと考える。そうではないことを、私はうまく説明しようと試みる。それは簡単なことではないが、とにかく相手を納得させることになんとか成功する。それから彼は次に、私が何か心理的なトラブルに遭遇しているのだろうと推測する。ノイローゼとか、初期中年クライシスみたいなものに。

「仕事に疲れたとかそういうことなら、しばらく休暇を取ればいいじゃないか」と上司は穏やかに私を説得する。「有給休暇も溜まっているようだし、半月ほどバリ島かどこかで羽を伸ばし、気分を一新してまた戻ってくればいいだろう。そしてその時点でもう一度考え直せばいい」

 私はそれまでこの直属の上司と良好な関係を維持してきたし、彼もまた私に好意に近いものを抱いていたと思う。だからこんなことになって、彼に対して申し訳ないとは思った。しかしたとえ何があろうと、もうその職場に戻るつもりはない。それは朝の最初の光のようにはっきりしていた。


 私はただこの現実が自分にそぐわないと感じるだけなのだ。この場所の空気が自分の呼吸器に合っていない、というのと同じように。ここにこのまま留まっていては、やがて呼吸をすることさえ困難になってしまうだろう。だから一刻も早く、次の停車駅でこの電車を降りてしまいたい──私が望んでいるのはただそれだけだ。どうしても必要なこと、そうしなくてはならないことなのだ。

 でもそんなことを言い出しても、上司には(そしてたぶん同僚たちにも)理解されないだろう。この現実が私のための現実ではないという肌身の感覚は、そこにある深い違和感は、おそらく誰とも共有できないものだ。


 職を辞して自由の身となったものの、その後何をすればいいのか、計画と呼べそうなものを持ち合わせていなかった。だからとりあえず、可能な限り何も考えず何もせず、ひとりで部屋に寝転んで日々を送った。それ以外に私にできることは何もなかった。慣性をはくだつされ、一切の動きを停止し、地面に放置された重い鉄球になったみたいに感じられた。それは決して悪い感覚ではなかったが。

 その期間、私はなによりよく眠った。一日に少なくとも十二時間は眠っていただろう。眠っていないときもただベッドに横になり、部屋の天井を眺め、窓から入ってくる様々な物音に耳を澄ませ、壁を移ろう影を見つめていた。何らかの示唆をそこに読み取ろうとして。しかしそんなところにはもちろん、いかなるメッセージも含まれてはいない。

 本を読む気も起きないし(私にとってはかなり珍しいことだ)、音楽を聴く気にもなれない。食欲もほとんど感じない。酒を飲みたいとも思わない。誰とも口をきかない。たまに食料品の買い物をするために家の外に出ても、そこにある風景をうまく受け入れることができない。犬を連れて散歩する老人や、はしに上って植木の手入れをする人々や、通学する子供たちの姿を目にしても、それが現実の世界の出来事だとは思えない。すべてはものごとのつじつまを合わせるためにこしらえられた書き割りとしか、立体を装った巧妙な平面としか見えないのだ。

 私がリアルな世界の光景として捉えられるものといえば、川柳の繁った中州を望む川沿いの道であり、針のない時計台であり、降りしきる雪の中を歩む冬の単角獣であり、門衛が丹念に研ぎ上げたなたの、不気味な輝きでしかない。

 しかしその世界に戻っていく手立ては、私には与えられていない。


 経済的な側面からいえば、さしあたって問題と言えるほどのものはなかった。それなりの蓄えはあったし(以前にも述べたように、私は長年にわたってずいぶん簡素な独身生活を送ってきたのだ)、五ヶ月は失業保険を受け取ることができた。この十年ばかり、通勤に便利な都内の賃貸のアパートに住んでいたが、もっと家賃の安い物件に移ることも可能だ。というか、考えてみれば私はこの今、日本国中どこでも好きな場所に移り住むことができるのだ。しかしどこに行けばいいのか、具体的な場所をひとつとして思いつけなかった。

 そう、私はこの地上に停止した鉄球でしかない。ずしりと重い、求心的な鉄球だ。私の思念はその内側に堅く閉じ込められている。見栄えはしないが、重量だけはじゅうぶんそなわっている。誰かが通りかかって、力を込めて押してくれなければ、どこにも行けない。どちらにも動けない。

 私は何度も私の影に向かって問いかけてみる。これからどこに行けばいいのだろう、と。しかし影は言葉を返してはくれない。

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