街とその不確かな壁

村上春樹



30



 東京からZ**町までの旅は予想した以上に時間がかかった。水曜日の朝の九時に東京を出て、現地の駅に到着したのは午後二時近くだ。面接の予定時刻は午後三時だ。

 東北新幹線で郡山まで行き、そこから在来線で会津若松まで行って、ローカル線に乗り換える。しばらくして列車は山中に入り、それからあとは地形に沿って細かく向きを変えながら、山と山との間を縫うように抜けていく。トンネルも次から次へと現れる。あるものは長くあるものは短い。いったいどこまでこうして山が続くのだろうと感心してしまうほどだ。季節は初夏で、まわりの山々はすっかり鮮やかな緑に包まれていた。どこかから風が入ってくるらしく、吸い込む空気には新緑の匂いがした。空には多くのとんびが輪を描き、その鋭い眼で世界を怠りなく見渡していた。

 内陸部に行くというのがそもそもの希望だったから、山が多いのは当然と言えば当然なのだが、考えてみれば私はこれまで一度も山間の土地に住んだことはなかった。生まれ育ったのは海のそばだし、東京に来てからはずっと関東平野の真っ平らな土地に暮らしていた。だからこれほど多くの山に囲まれた土地に定住する(かもしれない)というのは、私にとって不思議な気のすることであり、また同時に興味深い新たな展開のようでもあった。


 昼時ということもあり、列車の乗客は少なかった。駅に止まるたびに数人の乗客が降車し、かわりに数人が乗り込んだ。まったく人の乗降がない小さな駅もいくつかあった。駅員の姿さえ見えない駅もあった。食欲はなかったので昼食はとらず、どこまでも続く山を眺めながらときどき短くうたた寝をした。そして目が覚めると、いつも少し不安な気持ちになった。自分がここでいったい何をしているのか、これから何をしようとしているのか、そんなことをあらためて考え始めると、体内にある判断軸が微妙に揺らいだ。

 私は本当に正しい場所に向かっているのだろうか? ただ見当違いな方向に、見当違いなやり方で進んでいるだけではないのか? そう思うと、身体のあちこちの筋肉が強ばった。だからできるだけ何も考えないように努めた。頭を空っぽにしておかなくてはならない。そして自分の中にある直感を──論理では説明のつかない方向感覚を──信用して進んでいくしかないのだ。

 でもきっと何か大事な理由があるんでしょうねと大木は私に言った。私自身もそう信じてやっていくしかないのかもしれない。そこにはきっと何か大事な理由があるのだろう、と。


 大木はまた私のことを「予測がつかない」「つかみどころが見えない」と評した。それを聞いてそのとき私は少し驚きもした。自分がそんな風にまわりの人に見られていたなんて、思いも寄らなかったからだ。私は会社ではとくに目立った行動もとらなかったし、ごく当たり前の人間として普通に振る舞ってきたつもりだった。社交的とは言えないまでも、社内でのつきあいは人並みにこなしてきた。四十代半ばを迎えて独身であるのは珍しかったが(社内にはそういう例は私の他になかった)、それ以外にまわりの同僚たちと異なったところはとくになかったはずだ。でも私の中にはあるいは、人に心を許さない部分があったのかもしれない。地面に一本線を引いて、ここから内側には足を踏み入れてもらいたくない、といったように。そして長く行動を共にしていれば、人はそういう気配を微妙に感じ取るものだ。

「つかみどころが見えない」と言われれば、確かにそうかもしれない。結局のところ、私には自分自身のことさえろくすっぽ把握できていなかったのだから。私は窓の外を過ぎていく山間の風景を眺めながらそう思った。あるいは私という人間に関して、真に戸惑うべきは私自身なのかもしれない。


 目を閉じて何度か深く呼吸し、頭の中を落ち着かせようと試みる。少し後でもう一度目を開け、もう一度窓の外の風景に目をやる。列車は曲がりくねった美しい谷川をこうして渡り、トンネルに入り、トンネルを出る。トンネルに入り、トンネルを出る。ここまで深く山の中に入れば、冬はきっとずいぶん冷え込むことだろう。雪もかなり降るはずだ。雪について考えると、私はあの気の毒な獣たちのことを思い浮かべないわけにはいかなかった。降り積もる白い雪の中で、次々に息を引き取っていく単角獣たち。彼らはそのやつれた身体を地面に横たえ、静かに目を閉じて死を待ち続けている。


 Z**町の駅前には小さな広場があり、タクシー乗り場とバス乗り場があった。タクシー乗り場にはタクシーは一台もおらず、また姿を見せそうな気配もなかった。バスを待っている人の姿も見当たらなかった。私は用意してきた地図で図書館の位置を確かめた。駅から十分ほど歩けばそこに着くはずだ。だから私は町をぶらぶらと散歩して、それまでの時間を潰そうと思った。しかし十五分ばかりかけて町を一通り歩いてみたあとで、ここを散策してそれ以上の時間をつぶすのは不可能だという結論に達した。そこにはとくに見るべきものがないのだ。駅前には小さな商店街があったが、半分近くの店はシャッターをぴたりと下ろしていたし、開いている店もおおかたは眠りこけているようだった。

 喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら持参した本を読んでいようかとも思ったが、中に入りたいという気持ちになるような店は見当たらなかった。ファーストフードのチェーン店がひとつもないのは光景として好ましくはあったが、それに代わる魅力的な(あるいは妥当な)選択肢もなさそうだ。地元の人々はおそらく無個性なワンボックス・カーや軽自動車に乗って郊外に出かけ、無個性なショッピングモールで買い物をしたり、食事をとったりするのだろう。日本国中どこにでもある地方都市の典型だ。「ローカルカラー」なんていう言葉はもはや死語になりつつあるのかもしれない。

 私は小さなコンビニエンス・ストアで熱いコーヒーを買って、その紙コップを手に、駅の近くにある小さな公園で時間を潰すことにした。年若い母親が二人、子供たちをそこで遊ばせていた。小学校に上がる前の子供たちだ。男の子が一人に、女の子が一人。子供たちは遊具で遊び、母親たちは並んで立って、熱心に何かを話し合っていた。私は硬いベンチに座って、そんな風景を見るともなく見ていた。そうするうちに、高校生のとき、ガールフレンドの家の近くの公園で待ち合わせをしたときのことをふと思い出した。私の頭はすぐにそのときの記憶でいっぱいになった。

 その夏、私は十七歳だった。そして私の中では、時間はそこで実質的に停止していた。時計の針はいつもどおり前に進み、時を刻んでいたが、私にとっての本当の時間は──心の壁に埋め込まれた時計は──そのままぴたりと動きを止めていた。それからの三十年近い歳月は、ただ空白の穴埋めのために費やされてきたように思える。からっぽの部分を何かで充たしておく必要があるから、周りにある目についたものでとりあえず埋めていっただけだ。空気を吸い込む必要があるから、人は眠りながらも無意識のうちに呼吸を続ける。それと同じことだ。

 川を見てみたいとふと思った。そうだ、この町に着いたとき、私はまず川を見に行くべきだったのだ。時間は余っていたのだから。

 インターネットからプリントアウトしてきた町の地図をポケットから出して広げて見ると、その川は緩やかにカーブしながら町の外周近くを流れていた。それはどんな川なのだろう? そこにはどんな水が流れているのだろう? 魚はいるのか? そこにはどんな橋がかかっているだろう? しかし今から川まで行って、また戻ってくるだけの時間の余裕はもうなさそうだった。図書館の面接を終えたあとで、もしまだその気があるなら、ゆっくり見に行けばいい。

 ほとんど味のない薄いコーヒーを飲み終え、紙コップを公園のゴミ箱に捨てた。二人の幼い子供たちはまだ遊具で遊び続けていた。二人の若い母親はその隣で飽きることなくおしゃべりを続けていた。水飲み場にカラスが一羽とまって、私の方をじっと横目で見ていた。よそ者である私を、注意深く観察し、行動を見守っているようでもあった。私はそのカラスが飛び立つのを待ってから公園を出て、歩いて図書館に向かった。


 図書館は木造の二階建ての建物だった。どうやら古い大きな建物を最近になって新しく改築したもののようだ。瓦がいかにも真新しく光っていることでそれがわかった。小高くなった丘の上に建ち、手入れされた庭がついており、何本かの大きな松の木が得意げに地面に色濃い影を落としていた。それは公共施設というよりは、どこかの資産家の古い別荘のように見えた。

 思っていたより悪くないと私は思った。感心した、と言った方がいいかもしれない。二つ並んだ古い石の門柱の一つには、「Z**町図書館」と彫られた大きな木製の古びた看板が掛けられていたが、もしそれがなかったら、そこが図書館だとはおそらく気がつかずに通り過ぎていただろう。財政の豊かではない小さな町の図書館ということで、もっとありきたりの、貧相で味気ない建築物を予想していたのだ。

 あたりに人影はなかった。私は大きく開かれた鉄扉を抜けて、革靴の底で砂利を踏みしめながら、カーブした緩やかな坂道を玄関まで歩いた。大きな松の枝のひとつには、やはり真っ黒なカラスが一羽とまっていたが(そしてやはり鋭い目で私の姿をじっと見守っているように思えたが)、それが先ほど公園にいたのと同じカラスなのかどうか、そこまではもちろん判別できなかった。

 玄関の引き戸を開け、民家風の古風な敷居を越えて中に入ると、屋内は大きく開けた空間になっていた。吹き抜けになっており、天井もかなり高い。太い四角い柱と、何本かのきれいにカーブした太い梁がかみ合わされ、大柄な家屋を頑丈に支えていた。おそらくは百年以上前から、その与えられた役目を黙々と、不足なく引き受けてきたのだろう。梁の上高くにある横長の窓から、初夏の陽光が心地よく差し込んでいた。

 玄関を入ってすぐの土間がラウンジのようになっていて、ソファが置かれ、壁のラックには新聞や雑誌が整然と並んでいた。真ん中のテーブルに置かれた大きな陶製の花瓶には、枝付きの白い花がたっぷり挿されていた。三人の利用客が椅子に腰を下ろし、それぞれに黙々と雑誌を読んでいた。六十代から七十代の男性、おそらく暇を持て余している退職者だろう。そのような人々が昼下がりの時間を過ごすには、うってつけの場所であるようだ。

 その奥にはカウンターがあり、眼鏡をかけた細身の女性が座っていた。いくぶん骨張った顔立ちで、鼻が小さく薄い。髪を後ろで束ね、簡素なデザインの白いブラウスを着ている。暖炉の前で編み物をしているのが似合いそうだ。しかし今はカウンターの奥に座り、分厚い帳簿にボールペンで何か記載している。その背後の壁には伸びをしている猫を描いたレオナール・フジタの小品が、頑丈そうな額に入って飾られていた。たぶん複製だろう。複製でなければ間違いなく相当な値がついているはずだし、そんな貴重なものがここに何気なく飾られているとは思えない。しかし複製画にしては額がいささか立派すぎる。

 腕時計の針が三時少し前を指していることを確かめてから、カウンターに行って名前を名乗り、三時からの面接にうかがったのだがと言った。彼女は私の名前を聞き返し、私はもう一度繰り返した。彼女は猫を思わせる目をしていた。変化しやすく奥が見通せない目だ。

 彼女は何かを確かめるように私の顔をしげしげと眺め、しばらく黙り込んでいた。言葉を一時的に失ったかのように。それから一息ついて、どことなく諦めを感じさせる声で言った。「お約束をなさったのですね?」

「いつでもかまわないから月曜日以外の午後三時にここに面接に来るようにと言われました」

「失礼ですが、誰とお約束なさったのでしょう?」

「さあ、お名前はわかりません。人を介した話でしたので。ただこの図書館の責任者の方と話すように言われたのです」

 彼女は眼鏡のブリッジに手をやって位置を正し、またしばらく黙り込み、それから抑揚を欠いた声で言った。

「面接のことはわたくしは聞いておりませんが、わかりました。あちらの階段を上がると、廊下のすぐ右手に館長室があります。そちらにお越しください」

 私は礼を言って、階段の方に向かった。カウンターの女性の困惑したような沈黙には、何かしら意味が含まれていそうだったし、もちろん気にはなったけれど、それについて今ここで考えを巡らせている余裕は私にはなかった。なにしろこれから大事な面接が控えているのだから。

 階段の上がり口には簡単なロープが渡され、「関係者以外はご遠慮ください」という札がかかっていた。天井が取り払われて吹き抜けになっているのはラウンジを含めた一階の一部だけで、あとは二階建てになっているようだった。一般の来館者が利用できるのはおそらく一階部分だけなのだろう。

 微かな軋みを立てる板張りの階段を上ると、カウンターの女性が教えてくれた通り、すぐ右手にドアがあり、「館長室」と彫られた金属札が打ち付けられていた。私はもう一度時計に目をやり、その針が午後三時を僅かに回っていることを確認してから一度深呼吸をし、ドアをノックした。湖に張った氷の厚さを、そこを渡る前に慎重に確かめる旅人のように。

「どうぞ、ああ、お入りなさい」という男の声が間を置かず中から聞こえた。まるでかなり前からノックをじっと待ちかまえていたみたいに。


 ドアを開けて中に入り、戸口で軽く一礼した。こめかみが小さく脈打っているのが感じられた。私は自分で予想していた以上に緊張しているらしかった。面接を受けるなんて、大学生のときに会社まわりをして以来のことだ。自分がその時代、その年齢にもう一度戻されてしまったような気がした。

 部屋はそれほど広くなく、ドアの真向かいに縦長の窓があり、そこから陽光が差し込んでいた。その窓を背にして古い大ぶりなデスクがあり、そこに男が座っていた。しかし光の影になって、相手の顔をはっきり見定めることができなかった。

「お邪魔いたします」と私は戸口に立ったまま、乾いた声で言った。そして名を名乗った。

「どうぞ、お入りなさい。お入りなさい。お待ちしておりました」とその男は言った。森の奥で見知らぬ動物に語りかけるような、穏やかなバリトンの声だった。地方の訛りは聞き取れない。「そこの椅子に、ああ、お座りください」

 椅子はデスクのこちら側にあり、私たちはまっすぐ顔を合わせる格好になった。しかし彼の顔は相変わらず日差しの影の中にあった。椅子に座っていたから、背丈まではわからなかったが、どうやら大柄な男ではないようだ。丸顔で、どちらかといえば肥満気味であるらしい。

「こんな遠方までよくお越しくださいました」と男は言った。そしてひとつ軽く咳払いをした。「さぞ時間がかかったことでありましょう」

 五時間近くかかったと私は言った。

「そうですか」と男は言った。「新幹線のおかげでずいぶん時間が短縮されましたが、わたくしはあまり外に出んもので、そのへんのことはよくわかりません。東京にもなにしろずいぶん長く足を運んでおりませんので」

 男の声には一種不思議な感触があった。こなれた柔らかな布地の肌触りを思わせる。ずっと昔どこかでそれに似た声音を耳にした覚えがあったが、それがいつどこでだったか、急には思い出せなかった。

 陽光の明るさに次第に目が慣れてくると、男がおそらくは七十代半ばあたりであることがわかってきた。灰色の髪が頭の奥の方まで後退している。上瞼が分厚く、一見眠そうに見えたが、その下からのぞいている瞳の色は明るく、意外なほどの生気を感じさせた。

 彼はデスクの抽斗を開け、そこから名刺を一枚取りだし、デスク越しに私に寄越した。白い紙に黒いインクで「福島県 ***郡 Z**町図書館館長 やすたつ」と印刷されていた。図書館の住所、そして電話番号。とても簡素な名刺だった。

「子易と申します」と子易氏は言った。

「珍しいお名前ですね」と私は言った。名前について何かひとこと述べた方がいいような気がしたからだ。「このあたりには多いお名前なのですか?」

 子易館長は笑みを浮かべながら首を振った。「いやいや、このあたりでも、子易姓を名乗るのはわたくしどもだけです。他にはおりません」

 私は念のために以前の会社で使っていた名刺を、カード入れから出して差し出した。

 子易館長は老眼鏡をかけ、その名刺をいちおう確認してから、抽斗に仕舞った。そして老眼鏡を外して言った。

「ああ、送ってくだすった履歴書を拝見いたしました。図書館勤務の経験もないし、資格も持っておられんということで、最初の段階ではお断りしようかとも思ったのです。わたくしどもとしては図書館運営の経験者を、ということで募集しておったものですから」

 私は「もちろん」という顔をして肯いた。わたくしどもという表現がいったいどれほどの人数を意味するのかはわからなかったが。

「しかし、ああ、いくつかの理由から、あなたを候補の一人として残すことにしたのです」、子易館長は太くて黒い万年筆を手に取り、それを指の間でくるくる回した。「理由のひとつは、書籍の流通に長年携わってこられたあなたの実績は、得がたいものだと思ったからです。そしてまだまだお若い。どういう事情があったのかは知りませんが、もっとも働き盛りの年齢で会社を退職なさっておられる。この職に応募されてきた方の大半は、既に定年退職された高年齢の方々です。あなたのような若い方はほかにおられなかった」

 私はもう一度肯いた。今の段階で私があえて口をはさむべき点は見当たらなかった。

「第三に、あなたが履歴書に添えておられた手紙を拝見すると、あなたは図書館で働くことに強い興味と関心を持っておられるようだ。それも大きな都会ではなく、地方の小規模な自治体で。そういう解釈でよろしいですかな?」

 そういうことだと私は答えた。館長はまたひとつ咳払いをしてから肯いた。

「こんな山深い田舎町での図書館の仕事が、なんであなたにとってそれほど意味を持つことになるのか、正直言ってわたくしにはよくわかりません。図書館の仕事なんぞ、まあかなり退屈なものですから。それにこの町には、娯楽施設と呼べるようなものはほとんど何ひとつございません。文化的な刺激も見当たらない。本当にこんなところでよろしいのですかね」

 文化的な刺激はとくに必要としない、と私は言った。私が求めているのは静かな環境だと。

「静かなことはずいぶん静かです。秋になれば鹿の鳴き声が聞こえるくらいです」と微笑みながら館長は言った。「それではあなたがその出版流通会社でなさっていたお仕事の内容を説明していただけますかな?」

 若い頃には足を使って全国の書店を回り、書籍販売の現場の実態を学んだものだ。ある程度の年齢になってからは、本社に腰を据えて流通を調整し、それぞれの部署に指示を出すコントローラーのような役目を果たしてきた。どのようにうまくことを進めても、必ずどこかから苦情の出る仕事だ。しかし私はまず無難にその仕事をこなしてきたと思う。


 そんな説明をしているうちに、私はふと気がついた──大ぶりなデスクの隅に帽子がひとつぽつんと置かれていることに。それは紺色のベレー帽だった。長年使い込まれているものらしく、ちょうど良い具合に柔らかくくたびれている。そしてそれは、私が夢の中で目にしたのとまったく同じ──少なくともまったく同じに見える──ベレー帽だった。置かれている位置までも同じだ。私は息を呑んだ。

 何かと何かが繫がっている

 時間がそこでいったん動きを止めてしまったようだった。時計の針は遠い過去の大事な記憶を懸命に辿るように、そこに凍りついた。それが再び動き出すまでにしばらく時間がかかった。

「どうかなすったのですか?」、子易館長が心配そうに私を見ながら尋ねた。

「いいえ、何でもありません。大丈夫です」と私は言った。そして何度か軽く咳払いをした。喉に何かが詰まったふりをして。それから何ごともなかったように、前の会社でおこなっていた仕事の説明を続けた。


「なるほど、あなたは長年にわたって書籍について勉強をなさり、けんさんを積んでこられた。社会常識もあり、組織内での仕事のやり方も心得ておられるようだ」、私が話し終えると館長はそう言った。

 私はちらりとベレー帽に目をやり、また相手の顔を見た。

 子易館長はそのあとこの図書館の運営に関して、館長がしなくてはならない仕事の説明をした。それほど長い説明ではない。仕事の量は多くなかったからだ。給与の額も提示された。大した額ではないが、覚悟していたほど少なくもなかった。もしこの町で一人つつましく生活するのであれば、十分事足りる額だ。

「ああ、何か質問はございますでしょうか?」

 質問はもちろんいくつかあった。「もし、あなたの職を継ぐことになるとすればですが、私はいろんな決定に関して、どなたの指示を仰げばいいのでしょう?」

「つまりボスは誰になるか、ということですね」

 私は肯いた。「そういうことです」

 子易館長はもう一度太い万年筆を手に取り、その重さを確かめてから慎重に言葉を選んだ。

「ああ、この図書館は名義上はいちおう町営図書館となっておりますが、実質的な運営は町の有志が起ち上げたファンドによって行われております。ファンドには理事会があり、理事長がおりまして、理論的にはその人物が決定権を有しておるのですが、実際には名前だけの名誉職で、ほとんど何の発言もしません」

 子易館長はそこで話しやめた。私は話の続きを待ったが、続きはないようだった。

 私がそのまま黙っていると、子易館長は沈黙の中で何度か瞬きをし、指に挟んでいた万年筆をデスクの上に置いた。

「それについてはまた後日、ゆっくりご説明させてください。いささか長い話になりそうですから。ただとりあえずのところは、何か問題みたいなものがあれば、このわたくしに相談していただけますか。わたくしがうまく取り計らうようにいたします。それでいかがでしょう?」

「よくまだ事情が呑み込めないのですが、子易さんはこの図書館の館長職を辞されるということなのですね?」

「ええ、そのとおりです。というか、わたくしは既に館長職を退いておりまして、そこは空席となっております」

「そして子易さんは館長の職を退かれたあとも、相談役のようなかたちでここに残られるのでしょうか」

 子易館長は水鳥が物音を聞きつけたときのように、くいと小さく鋭く首を曲げた。

「いやいや、相談役というような役職が公式にあるわけじゃございません。ただ職務引き継ぎの期間は、やはりある程度必要とされるのではないかと愚考いたします。その期間、必要に応じてあくまで個人的にあなたのお手伝いをできればと思っているだけです。もちろんあなたの方に不都合がなければ、ということでありますが」

 私は首を振った。「いいえ、不都合なんてことはありません。というか、それは私にとってずいぶんありがたいことです。ただお話をうかがっていると、なんだか既に後継者は私に決定しているというように聞こえてしまうのですが」

「ああ、それはもう」と子易館長は驚いたような表情を顔に浮かべて──そんなこともわかっていなかったのかというように──言った。「わたくしどもとしては最初からずっとそのつもりでおりましたよ。実はこれまでお勤めになっていた会社の同僚の方からも、内々にお話をうかがいましたが、ああ、あなたの評判は間違いないものでした。仕事においては有能であり、人柄も森の樹木のように誠実で信頼できると」

 森の樹木のように? 私は自分の耳を疑った。そんな表現を口にしそうなかつての同僚を、私は一人として思いつけなかったからだ。森の樹木のように

 子易館長は続けた。「ですからこそ、わざわざこのような遠方までご足労をいただいたのです。正式決定をする前に、やはり一度お目にかかって、お話をしておいた方がよかろうと。しかしわたくしどもの気持ちは前もって決まっておりました。この職は是非ともあなたさまにお願いしようと」

「ありがとうございます」と私はどこかに重心を置き忘れたような声で言った。そして深くゆっくり息をついた。それはおそらく安堵の息だった。


 私たちはその後、私がこの町の図書館の職に就くにあたっての、いくつかの実際的な案件について話し合った。今住んでいる都心のアパートを引き払い、この町に越してこなくてはならない。その住まいを調達する必要があった。もし任せてもらえるなら、適当な住居は当方で用意できると思うと子易館長は言った。この町には空き家はいくつもあるし、家賃は東京都心に比べれば微々たるものだ。家財など、あとのことはなんとでも都合はつくだろう。

 半時間ほどかけておおよその話が決まると、子易館長は椅子から立ち上がり、デスクの上の紺色のベレー帽を手に取って、頭にかぶった。用件があって、そろそろもと来た場所に戻らなくてはならないのだと言った。

 もと来た場所に戻るというのはちょっと奇妙な表現だなと私は思った。しかしもともと少し変わった言葉遣いをする人物だったから、とくに気にはしなかった。

「素敵なお帽子ですね」と私は水を向けた。

 館長は嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。一度帽子を脱ぎ、じっくり眺め、念入りに形を整えてからかぶり直した。ベレー帽はより親密に頭の一部になったように見えた。

「ああ、この帽子はかれこれ十年前から愛用しております。やむを得ぬこととはいえ、年齢とともに髪が薄くなり、帽子なしでは何かとつらさを感ずるようになりました。とくに冬場は。それでフランスに旅行することになった姪っこに頼みまして、パリの一流店でベレー帽を買ってきてもらったのです。若い頃はフランス映画が好きでして、昔からベレー帽に憧れておったものですから。まあ、このような僻地でベレー帽をかぶっているものといえばわたくしくらいのものでして、最初はそこそこ恥ずかしかったものですが、そのうちにすっかり馴れました。わたくしの方も、またみんなの方も」

 それから私は子易館長の身なりに関してもうひとつの普通ではない──風変わりという点ではベレー帽以上に風変わりな──事実を目に留めることになった。子易館長はズボンではなくスカートをはいていたのだ。


 子易氏は後日、どうして日常的にスカートをはくかということについて、親切にわかりやすく説明をしてくれた。

「ひとつには、こうしてスカートをはいておりますと、ああ、なんだか自分が美しい詩の数行になったような気がするからです」

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