街とその不確かな壁

村上春樹



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 子易さんは不定期に、おそらくは気の向いたときに館長室に姿を見せた。均してだいたい三日か四日に一度というところだったろう。彼は静かに(ほとんど音も立てずに)ドアを開けて部屋に入ってきて、三十分ばかり私とにこやかに話をし、そしてまた静かに立ち去っていった。まるで心地よい風に吹かれるみたいに。あとになって考えてみれば(そのときはとくに考えもしなかったが)図書館以外の場所で私と子易さんが顔を合わせることは一度もなかった。そして私たちは常に二人きりだった。私たち以外の誰かがそこに居合わせたことはない。

 子易さんはいつも同じ紺色のベレー帽をかぶり、巻きスカートをはいていた。スカートは何種類か持っているようで、無地のものであったり、チェック柄のものであったりした。色は概して派手だった。少なくとも地味ではなかった。そしてそのスカートの下に、ぴったりした黒いタイツのようなものをはいていた。

 何度か会っているうちに、私も子易さんのそんな格好に馴染んで、とくに奇異に感じることはなくなってしまった。彼がそんな服装で町を歩いているとき(当然歩くだろう)、まわりの人々がどのような目で彼を見るのか、どんな反応を見せるのか、私にはちょっと想像もつかなかった。しかしきっとみんな私と同じように、何度もその姿を目にしているうちに見慣れてしまって、なんとも思わなくなっているのだろう。それに子易さんはなんといってもこの町の名士なのだ。指さしてからかうわけにもいかない。

 でもあるとき、私は何かの話のついでに、思い切って子易さんに尋ねてみた。いつからそのように日常的にスカートをはくようになったのですかと。そして、そう、そのときに彼は言ったのだ。明るくにこやかに、あくまで当然のことのように。


「ひとつには、こうしてスカートをはいておりますと、ああ、なんだか自分が美しい詩の数行になったような気がするからです」


 なぜか私は彼のその説明をとくに驚きもせず、不思議にも思わず、そのとおりごく自然に受け入れた。日常的にスカートをはくことは、きっと彼の心持ちに何よりすんなり馴染んだおこないなのだろう。そしてそれがどのようなことであれ、その理由がいかなるものであれ、自分が美しい詩の数行になったみたいに感じられるというのは、なんといっても素晴らしいことではないか。もちろん(というか私は)、だからといってスカートをはいてみようという気持ちにはなれないけれど、それはあくまで個人的な好みの問題に過ぎない。


 私は子易さんに好意を持っていたし、彼もおそらく私に好意(らしきもの)を持っていたと思う。しかし私と子易さんとの交際はあくまで公的な場に限定されたものだった。子易さんは前触れもなくふらりと館長室にやって来て、仕事の引き継ぎを手伝ってくれ、判断に困ることがあれば適宜有益なアドバイスを与えてくれた。もし彼がいなかったら、私はその仕事の要領を摑むまでに、かなりの時間と手間を要したことだろう。仕事自体はさして複雑なものではなかったけれど、そこにはやはり細かいローカル・ルールのようなものが存在していたから。

 私たちは図書館の運営について熱心に語り合い、その合間に一緒にお茶を飲んだ。子易さんはコーヒーが苦手らしく、飲むのは常に紅茶に限られていた。館長室のキャビネットの中には彼専用の白い陶製のティーポットが置かれ、特別にブレンドした茶葉が用意されていた。彼は電熱器でお湯を沸かして、何より大事そうに注意深く紅茶を淹れた。私もそのおしょうばんにあずかったが、色といい香りといい、うっとりするほど美味な紅茶だった。私はコーヒー党だったが、彼の淹れた紅茶を一緒に味わうことは私にとって、日々のささやかな喜びのひとつになった。その味を褒めると、子易さんはとても嬉しそうな顔をした。

 にもかかわらず、図書館以外の場所で私たちが顔を合わせることはなかった。この人はプライベートな領域で他人と触れあうことがあまり好きではないのだろうと私は想像した。そしてそれは正直なところ、私にとってもむしろありがたいことだった。

 私は図書館の仕事を終えて帰宅すると、簡単な一人ぶんの食事を作り、あとは読書用の椅子に座ってひたすら本を読んだ。家にはテレビもなかったし、ステレオ装置もなかった。防災用のトランジスタ・ラジオがあるだけだ。ラップトップ・コンピュータはあったが、もともとそれを用いることはあまり好きではなかったから、椅子に座り込んで好きな本を読むくらいしかやることはなかった。

 本を読みながら、スコッチ・ウィスキーをオンザロックにして、グラスに一杯か二杯飲んだ。そうするうちにだんだん眠くなり、だいたい十時頃にベッドに入って眠った。寝付きは良い方で、一度眠りに就いてしまうと、朝になるまでまず目は覚まさなかった。


 朝や夕方、とくに何もすることがない時間には、町の周辺をあてもなく散歩した。美しい音のする川沿いの道が、中でも私のお気に入りのコースだった。

 川に沿って散歩用の道路が続いており、人通りはほとんどなかったが、時折ジョガーや、犬を散歩させる人々とすれ違った。道を何キロか下流に向けて進むと、舗装は突然ぷつんと途切れ、道は川から逸れて広い草むらの中に入っていった。かまわずにそのまま進んでいくと、しばらくして──たぶん十分かそこら歩いたころに──その細い踏み分け道も消えてしまう。そして私は行き止まりの草原の真ん中に一人で立っていた。緑の雑草は丈が高く、あたりには何の物音もしない。耳の中に沈黙が鳴っている。赤いトンボの群れが私のまわりを音もなく舞っているだけだ。

 見上げると、空は真っ青に晴れ上がっていた。秋らしい白く堅い雲が、物語に挿入されたいくつかの断片的なエピソードのようにそこに位置を定めていた。胸に息を吸い込むと、たくましい草の匂いがした。そこはまさに草の王国であり、私はその草的な意味を解さない無遠慮な侵入者だった。

 そこに一人で立っていると、私はいつも悲しい気持ちになった。それはずいぶん昔に味わった覚えのある、深い悲しみだった。私はその悲しみのことをとてもよく覚えていた。それは言葉では説明しようのない、また時とともに消え去ることもない種類の深い悲しみだ。目に見えない傷を、目に見えない場所にそっと残していく悲しみだ。目に見えないものを、いったいどのように扱えばいいのだろう?

 私は顔を上げ、川の流れの音が聞こえないものかと、もう一度注意深く耳を澄ませた。しかしどんな音も聞こえなかった。風さえ吹いていない。雲は空のひとつの場所にじっといつまでも留まっていた。私は静かに目を閉じ、そして温かい涙が溢れ、流れるのを待った。しかしその目に見えない悲しみは私に、涙さえ与えてはくれなかった。

 それから私は諦め、もと来た道を静かに引き返すのだった。


 子易さんと頻繁に図書館で顔を合わせながら、ずいぶん長いあいだ、彼という人物について私はほとんど何も知らないままの状態に置かれていた。

 独身だということだが、これまで一度も家庭を持ったことはないのだろうか? 子易さんが独身であることについて、「まああの通りの方でしたから」と添田さんは論評した。「あの通り」とはどういう意味なのだろう? そしてなぜ彼女は過去形を使ったのか?

 考えれば考えるほど、子易さんについて知るべきことは数多くあった。しかし同時に、その理由はうまく説明できないのだが、むしろ何も知らない方がいいのかもしれないという思いも、私の中にはあった。

 図書館で働いている女性たちはおおむねおしゃべりだった。もちろん図書館が職場だから、表に出ているときは彼女たちは意識して寡黙さを保っていた。何かを伝える必要のあるときには、小さな声で手短にしゃべった。しかしいったん人目につかない奥の場所に引っ込むと、表向きの寡黙さの反動もあってか、実によくしゃべった。だいたいが女性同士のひそひそ話だったから、私はそういう場所にはできるだけ近づかないようにしていたのだが。

 しかしそのようにおしゃべりな割に、彼女たちは私の前では子易さんについての話はほとんど持ち出さなかった。他のものごとについては(この図書館について、この町について)、彼女たちは親切に事細かに、様々な知識を惜しみなく私に与えてくれたのだが、子易さんのことになると、彼女たちの口調はなぜか急に重く、曖昧なものになった。そして彼女たちの個人的意見は、あるいは総体としての意見は、汚れた洗濯物のように、どこか奥の方にそそくさと仕舞い込まれてしまった。

 そんなわけで、私は子易さんという人物についての情報をどこからも仕入れることができなかった。その個人的背景は謎に包まれたままだった。なぜ彼女たちがスカートをはいた個性的な、小柄でこぎれいな老人について、多くを語ろうとしないのか、理由はよくわからない。それはある種の「きん」に近いもののように感じられなくもなかった。鎮守の森のほこらを決して開いて覗いてはならない、とでもいうような。素朴な──しかし深層意識にまでしっかり染みついた──種類のタブーだ。

 だから私も意識して、子易さんについて話すことはなるべく避けるようにしていた。こちらとしても彼女たちを困らせたくはなかったからだ。また子易さんがどのような背景を有した人物であるにせよ、それはこの町の図書館における私の職務に──少なくとも現在の時点において──とくに影響を与えるものではなかった。子易さんは私に図書館長としての仕事の要諦を親切に、要領よく伝授してくれたし、おかげで私は彼がこれまで受け持っていた職務を円滑に継承することができた。知らなくてもいいことは、知らないでいる方がいいのだろう。おそらく。


 司書の添田さんの夫は、この町の公立小学校の教師をしており、二人の間に子供はいないということだった。彼女は長野県生まれの人で、結婚して故郷を離れ、この町に住むようになった。それからおおよそ十年が経過している。それでもいまだにこの町では、基本的に「よそ者」として扱われているということだ。人の行き来の少ない、山に囲まれた土地なのだ。排他的とまではいかずとも、よそから来た人を受け入れることに関して人々はどうしても消極的になる。いずれにせよ彼女はきわめて有能な女性で、図書館の事務的な雑事をほとんどすべて受け持ってくれていた。何ごとにおいても判断が速くきっぱりとしていて、しかも間違いがない。

「添田さんがいなくなったら、ああ、この図書館はおそらく一週間ともたんでしょうな」と子易さんは言った。そしてここで日を送るにつれて、私もその見解に深く同意するようになった。

 結局のところ、彼女がこの図書館の活動の中心軸となっているのだ。もし彼女がいなくなれば、おそらくそのシステムは徐々に動きを鈍くし、やがては回転することをやめてしまうかもしれない。彼女は町役場との連絡を緊密に取り、働く人の配置を調整し、給湯器の故障から電球の交換に至るまで、図書館の運営に支障が出ないように、そして利用者から苦情が出ないように、細かく注意を払っていた。パートの女性たちを適切に指導監督し、何か支障があれば間を置かず問題を正した。図書館の催し物があれば、必要とされる事物をリストにし、遺漏なく揃えた。庭の植栽にも目を配らなくてはならなかった。その他、図書館の運営に必要なものごとは、おおむねすべて彼女のコントロール下にあった。

 彼女がここの図書館長を務めるのが、どう考えても最良の選択ではないかと私は思ったし、子易さんにもそのように言った。これほど有能な女性がいるのなら、私みたいな素人の新人が上席に座っていなくても、この図書館は問題なく維持されていくのではないでしょうか、と。

 子易さんは少し困ったように私の顔を見ていたが、それから言った。「わたくしも彼女に言ったのです。あなたがわたくしの跡を継いでくれるのがいちばん良いのではないでしょうかと。ああ、しかしながら彼女は強く固辞しました。自分は人の上に立つようにはできていないのだと。言葉を尽くして説得はしたのですが、引き受けてはもらえませんでした」

「謙虚な人なのですか?」

「おそらくは」と子易さんはにこやかに言った。


 添田さんはおおよそ三十代半ば、さっぱりとした顔立ちの、知的な印象を与える女性だった。身長は一六〇センチくらい、体つきも顔立ちと同じように細身だ。姿勢がよく、背筋がまっすぐ伸びて、歩き方もきれいだ。学生時代はバスケットボールの選手だったという。いつも膝下あたりの丈のスカートをはき、歩きやすい低いヒールの靴を履いていた。化粧気はあまり(ほとんど)ないが、肌は美しい。耳たぶは丸く、浜辺の小石のようにつるりとしていた。うなじは細いが、弱々しい印象はない。ブラック・コーヒーが好きで、カウンター内の彼女のデスクには常に大ぶりなマグが置かれていた。マグには羽を広げたカラフルな野鳥の絵が描かれていた。見たところ、初対面の相手に簡単に心を許すタイプの女性ではなさそうだ。その目には常に怠りなく用心深い光が浮かび、唇はきりっと挑戦的に結ばれている。でも私は、最初に会って話したときからなんとなく、彼女とはそのうちに親しくなれるのではないかという気がしていた。たぶんこの小さな町における「よそ者」同士として。


 添田さんは言葉少なにではあるが、新来の「よそ者」である私を新しい上役として、最初から抵抗なく、ごく当たり前に迎え入れてくれた。それは私にとっては何よりありがたいことだった。職場におけるぎくしゃくした人間関係ほど人を消耗させるものはないから。

 添田さんは自らについては多くを語りたがらない人だった。それでも他人に対する健全な好奇心はじゅうぶん持ち合わせているらしく、少し時間が経って私の存在に慣れてくると、私の過去について何かと知りたがった。他の女性たちと同じく、なぜ私が四十代半ばまで独身を保っているのか、それが最も興味を抱くことのようだった。もし「適当な相手がみつからなかった」というのがその理由であれば、誰か「適当な相手」を探してきて紹介しようというつもりもあったかもしれない。私は年季の入った独身者として、これまでそういう目に何度となくあってきた。

「結婚しなかったのは、心に思う相手がいたからです」と私は簡潔に答えた。同じ質問には常に同じ答えを返すようにしている。

「でもその人とは一緒になれなかったわけですね。何か事情があって?」

 私は黙って曖昧に肯いた。

「相手の人は誰かと結婚していたとか?」

「それはわからない」と私は言った。「もう長いあいだ会っていないし、彼女が今どこで何をしているか、それも知りようがないし」

「でもその人のことが好きで、いまだに忘れられないのですね?」

 私はもう一度曖昧に肯いた。そのように説明しておくのが世間的にはいちばん無難だった。そしてそれはあながち作り話とも言えない。

 彼女は言った。「だから都会を離れて、こんな山の中の田舎町に移り住むことにしたのかしら。彼女のことを忘れるために?」

 私は笑って首を振った。「いや、べつにそんなロマンティックなことじゃない。都会であれ田舎であれ、どこにいたって事態は同じようなものです。ぼくはただ流れのままに移ろっているだけだから」

「でもいずれにせよ、彼女はよほど素敵な人だったのね?」

「どうだろう? 恋愛というのは医療保険のきかない精神の病のことだ、と言ったのは誰だっけ?」

 添田さんは声に出さずに笑い、眼鏡のブリッジを指で軽く押さえた。そして専用のマグからコーヒーを一口飲み、やりかけていた仕事の続きに戻った。それがそのときの我々の会話の最後だった。

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