街とその不確かな壁

村上春樹



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 その夜、いつものように夜の十時前後に布団の中に入った。しかしうまく寝付くことができなかった。それはかなり珍しいことだった。私は布団の中に入るとすぐに眠りに就いてしまう人間だ。枕元には本が一冊置かれているが、それが開かれることは稀だ。そしておおむね朝の光とともに自然に目を覚ます。おそらく私は幸運の星の下に生まれついた人間なのだろう。多くの人たちから、不眠の苦しみについての話をさんざん聞かされてきたから。

 でもその夜、私はなぜかうまく眠りに入ることができなかった。身体は自然な眠りを求めているはずなのに、どうしても眠れないのだ。おそらく気が高ぶっているのだろう。

 私は頭の中にぽっかりとあいた(かのように思える)空白部分を満たすために、目を閉じて子易さんの墓のことを考えた。子易家の墓所に立つ、モノリスのようにのっぺりとした墓石。その新しい石材のどこまでも滑らかな輝き。そこに刻まれた、家族三人それぞれの生年と没年。そして私が持参した小さな花束や、木立を行き来する冬の鳥のきりっと鋭い啼き声や、あちこち凍りついた不揃いな寺の石段のことを考えた。スライド写真を眺めるように、それらのイメージを順番に追っていった。

 そうするうちに出し抜けに──まるで足元の茂みから鳥が飛び立つみたいに唐突に──その題名を思い出した。駅近くのコーヒーショップでかかっていた、コール・ポーターのスタンダード曲の題名を。『Just One of Those Things(よくあることだけど)』だ。そしてそのメロディーが、意識の壁にこびりついた呪文のように、耳の奥で何度も何度も繰り返された。

 枕元の電気時計は十一時半を指していた。私は眠るのを諦めて布団から出て、パジャマの上にカーディガンを羽織り、ガスストーブの火をつけ、冷蔵庫から牛乳を出して、小鍋で温めて飲んだ。生姜入りのクッキーを何枚かかじった。そして安楽椅子に座って、読みかけていた本のページを開いた。しかし読書に意識を集中することができなかった。様々なイメージや様々な音が、私の頭の中を脈絡なく駆け巡っていた。違う世界から送り届けられる、意味の通らないメッセージのように。無音の自転車に乗った顔のないメッセンジャーたちが、それらのメッセージを次々に私の戸口に置き、そのまま去っていった。

 私は諦めて本を閉じ、安楽椅子の上で大きく何度も深呼吸をした。意識を集中し、肺を思い切り膨らませ、肋骨を広げた。体内にある空気を隅々までそっくり入れ換えるために。落ち着かない気持ちを少しでも落ち着かせるために。でもそんなことをしても役には立たなかった。

 私のまわりにあるのは、いつもどおりの静かな夜だった。この時刻、家の前の道路を通る車もない。犬も鳴かない。文字通り物音ひとつ聞こえない──私の頭の中で終わりなく鳴り続けている音楽を別にすれば。

 なんとか眠ってしまいたかったが、どれだけ努めてもおそらくそれはかなわないだろう。ウィスキーもブランデーも役には立つまい。自分でもそれはよくわかっていた。今夜、おそらく何かが私を眠らせまいとしているのだ。何かが……。


 私は決心してパジャマを脱ぎ、できるだけ暖かい格好に着替えた。厚手のセーターの上にダッフルコートを羽織り、カシミアのマフラーを首に巻き、毛糸のスキー用帽子をかぶり、ライニングのついた手袋をはめた。そして外に出た。家の中で眠れないままじっとしていることに、そしてほとんど五分ごとに時計の針に目をやり続けることに、これ以上耐えられなくなったからだ。それくらいなら、寒い戸外をあてもなく歩いている方がまだましだ。

 家の外に出ると、風が吹き始めたことがわかった。昼間の穏やかな暖かさは消えて、空は分厚い雲に覆われていた。月も星も何ひとつ見えない。まばらな街灯がひとのない路面を寒々しく照らしているだけだ。山から吹き下ろす不揃いな風が、葉を落とした枝の間を音を立てて吹き抜けていた。冷ややかな湿気を含んだ風だ。いつ雪が降り出してもおかしくない。

 どこに行くあてもなく、白い息を吐きながら川沿いの道路を歩いた。重い雪靴が砂利を踏みしめる音が不自然なほど大きくあたりに響いた。川は半ば氷に覆われていたが、それでも流れの音は耳にくっきり届いた。きりきりと凍てつく夜だったが、その冷ややかさを私はむしろ歓迎した。冷気は私の身体を芯から引き締め、絞り上げ、もやもやとしたあてのない思いを一時的にせよ麻痺させてくれた。寒風のせいで両目にじわりと涙が滲んだが、おかげでさっきまで耳の奥で鳴り響いていたとりとめのないメロディーはもうどこかに消えていた。北国の冬の美徳とでも言うべきなのか。

 歩きながら私は何も考えていなかった。頭の中にあるのは心地よいただの空白だった。あるいは無だった。雪の予感を含んだ寒冷さが、鉄の腕のように私の意識を厳しく締め上げ、支配していた。寒いという以外の感覚がそこに潜り込める隙は微塵もない。そしてふと気がついたとき、私の足は自動的に図書館のある方角に向かっていた。まるで私の履いた雪靴が、持ち主である私以上に明瞭な意志を持ち合わせているみたいに。


 コートのポケットには図書館のあちこちの部屋の鍵を集めた鍵束が入っていた。私はそのうちでいちばん太い鍵を使って鉄製の門扉を開き、図書館の敷地の中に入った。そしてなだらかな坂道を上って、玄関の引き戸の錠を開けた。腕時計の針は十二時半を指していた。もちろん館内は無人で真っ暗だ。壁につけられた緑色の非常灯が微かな光を放っているだけだ。

 その貧弱な明かりを頼りに、何かにぶつからないようにそろそろと歩を運び、カウンターに常備してある懐中電灯を見つけて手に取った。そしてそれを使って足元を照らしながら真っ暗な館内を奥へと進んだ。私が向かうべき場所はひとつしかなかった。もちろんあの薪ストーブのある半地下の正方形の部屋だ。

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