街とその不確かな壁

村上春樹



63



 夕刻、いつものように図書館に向かって歩いて行く途中で、不思議な少年の姿を見かけた。

 彼は橋の向こう側に一人でぽつんと立っていた。川面にはうっすらと夕霧が立ち込めていた。春の初めにはよくそうして霧が立ち込める。水温と気温の間に差が生まれるせいだ。霧のために私は少年の姿をはっきりと目にすることはできない。しかし彼の着ている衣服はずいぶん特徴的なもので、それが私の目を惹く。少年は緑色のヨットパーカのようなものを着ている。その胸には黄色いイラストが描かれている。そこで風が吹いて、一瞬部分的に霧が晴れ、絵柄が明らかになる。丸みを帯びた潜水艦の絵だ。

「イエロー・サブマリン」、ビートルズのアニメーション映画に出てきた黄色い潜水艦。

 道を行き交う人々がすべて(といってもそれほど多くではないが)、くすんだ色合いの古びた衣服を身につけているこの街にあって、色鮮やかなパーカはいやでも人目を引いた。そしてまた、その少年の姿を目にするのは初めてのことだった。もし前に一度でも見かけていれば、間違いなく記憶に留めているはずだ。

 そしてその少年もまた同じように、こちらをじっと見ているようだった。でも確かなことは言えない。彼が立っているのは川を隔てた橋の向こう側だったし、風が止んで川面にはまた霧が立ち込めていた。そして私の眼は、街に入るときに受けた傷からまだ十分には回復していない。ただ私はそんな気配を──じっと見られているという気配を──肌に感じ取っただけだ。あるいはその少年は私に何かを伝えたがっているのかもしれない。私は橋を渡って向こう岸に行って、彼に話しかけるべきなのかもしれない。何か私に話したいことがあるのか、と。

 しかし私は図書館に向かう途中だったし、これという明白な理由もなしに、いつもの決まった道筋を変更したくはなかった。だからそのまま川のこちら側の道を、上流に向けて歩き続けた。

 川の中州にあちこち白い塊となって残っていた雪は、春の接近とともに解け始めていた。雪解けのせいで、川の水量はいつもより増していた。単角獣たちは本能的に春の到来が近いことを感じ取り、夢見るような目であたりを見回しながら、植物の緑の芽吹きを辛抱強く待ち続けた。長く続いた厳しい冬の間に、彼らは多くの生命を失っていた。その大半は老いたものたちと、十分な体力をそなえていない幼い子供たちだ。なんとか生き延びることができたものたちも、慢性的な飢えのせいで瘦せこけ、毛は秋に見せた艶やかな黄金の輝きを失っていた。

 私はコートのポケットに手を突っ込んで、川沿いの道を歩き続けた。いつものように乱れない規則的な歩調をとって。しかし私の心は珍しく落ち着かなかった。イエロー・サブマリンのパーカを着ていた少年の姿がなぜか頭から離れなかったからだ。

 いくつかの疑問が私の頭に浮かんだ。このくすんだ色合いの街にあって、どうしてその少年ひとりだけが、かくも鮮やかな目立つ服装をしているのだろう? そしてなぜ彼は私をじっと見つめていたのだろう? この街の人々は誰しも顔を伏せ、不穏な何かの──たとえば頭上高く旋回する暗い色合いの大きな食肉鳥たちの──目を逃れるかのように、足早に街路を歩いていく。わざわざ立ち止まって、誰かの顔をまじまじと見つめたりはしない。

 この壁に囲まれた街にやって来る以前、つまりあちら側の世界にいたとき、私はそのアニメーション映画を観たことがあった。『イエロー・サブマリン』。だからその絵柄はお馴染みのものだった。音楽も覚えている。しかし映画の内容は皆目思い出せない。我々はみんな黄色い潜水艦の中で暮らしている……そこには意味があり、同時に意味がない。

 少年はどこかで──どこだかはわからないけれど──たまたまそのパーカを古着として手に入れたのだろう。でもそこに描かれた絵柄が何を意味するのか、おそらくわかっていないはずだ。この高い壁に囲まれた街では、誰もビートルズの音楽を聴くことはできないから。いや、ビートルズに限らず、どのような音楽も。そしてまた「潜水艦」がどういう成り立ちのものかだって知らないはずだ。

 私はそんなことを考えるともなく考えながら、夕暮れの道を歩いていった。そして時計台の前を通り過ぎた。通り過ぎるときに、習慣的に時計を見上げた。時計はいつものように針を持たなかった。それは時間を告げるための時計ではない。時間が意味を持たないことを示すための時計なのだ。時間は止まってはいないが、意味を失っている。

 この街にはそれ以外に時計は存在しない。朝が来れば日が昇り、夕方になれば日が沈む。それ以上の時間の細かい分割を、いったい誰が必要とするだろう? ある一日と、次の一日との間の違いを──もしそこに違いがあるとすればだが──誰が知りたがるだろう?

 私もまたそのような、時間を測る必要を持たない住民の一人だ。夕暮れが近くなると服を着替え、家を出ていつもと同じ道をいつもと同じように歩いて、仕事先の図書館に向かう。歩数だって日々たいして違わないはずだ。そして図書館の奥の書庫で〈古い夢〉を読む。指先と眼が疲労を覚え、それ以上うまく読めなくなるまで。

 そこでは時間は意味を持たない。季節が巡るのと同じように、時間もまた巡る。ぐるぐると巡る。同じところを? いや、それはわからない。時間はそれなりのやり方で少しずつ進行しているのかもしれない。ただ正直なところ「ぐるぐると巡っている」と表現するしかないのだ。あとのことは時間に任せるしかない。

 しかしその夕刻、イエロー・サブマリンのパーカを着た少年の姿を川向こうに見かけたことで、私にとっての時間は、通常のあり方をいくらか乱されることになった。舗道の敷石を踏む私の靴音はいつもとは少し違って聞こえる。中州に生えたかわやなぎの枝の揺れ方も、いつもとは僅かに違っているように感じられる。


 図書館ではいつものように少女が私を待っている。彼女は先にそこに来ていて、私のために準備を整えている。寒い季節であればストーブに火を入れ、カウンターに向かって薬草茶をこしらえている。私の眼の傷を癒やすための特別なお茶だ。薬草茶は私の眼を完治させることはないが、それがもたらす痛みを和らげてくれる。私は〈夢読み〉として、その傷ついた眼を持ち続けなくてはならない。

 そして私が〈夢読み〉である限り、私はその少女と日々顔を合わせ、数時間を共に過ごすことができる。彼女は十六歳で、彼女にとっての時間はそこで静止している。


「さっき一人の男の子を川の向こう側で見かけたんだ」と私は彼女に言う。「黄色い潜水艦のヨットパーカを着た男の子だ。君とだいたい同じくらいの年齢だった。その子のことを君は知っている?」

「ヨットパーカ? 潜水艦?」

 ヨットパーカがどんなものかを私は簡単に説明する。潜水艦についても。彼女がどれほどのことを理解したかはわからないが、おおよその見かけを伝えることはできた。

「そんな男の子は見たことがないと思う」と少女は言う。「もし見かけたら覚えているはずだから」

「新しくこの街に入ってきた人かもしれない」

 彼女は首を振る。「新しくここに入ってきた人はいない」

「それは確かなの?」

 彼女は緑の葉をすりこぎで細かく潰しながら、こっくりと肯く。「ええ、あなたのあとにこの街に入ってきた人はいない。ただのひとりも」

 街の人々は、この街に暮らす他の人々のことを一人残らず知っているようだ。それ以外の人が街に現れれば、目につかないわけがない。そして街の唯一の出入り口は、有能で頑強な門衛によって堅く護られている。

 私にはわけがわからない。だって、私はそのイエロー・サブマリンの少年の姿をたしかに目にしたのだから。見間違いや錯覚であるわけはない。しかしとりあえず、その謎の少年のことはそれ以上考えないことにする。私にはなすべき仕事があるのだ。

 私は彼女が私のために用意してくれた、どろりとした薬草茶を最後の一滴まで飲み干し、それから奥の書庫に移動する。彼女が棚から選んだ古い夢を、両手を使って静かに読み始める。


「耳をどうかしたの?」と少女が突然私に尋ねる。「その右側の耳たぶを」

 私は自分の右の耳たぶに手をやる。その途端にまぎれもない痛みを感じる。私はその痛みのために小さく顔を歪める。

「そこのところ、赤黒くなっているわ。まるで何かに強く嚙まれたみたいに」

「そんな記憶はないんだけれど」と私は言う。

 本当にそんな覚えはないのだ。彼女に言われるまで、痛みすら感じなかった。しかし今では、私の耳たぶは心臓の鼓動にあわせて確実にうずいていた。彼女に指摘されたことによって、嚙まれたことを耳が急に思い出したみたいに。

 彼女は私のそばによって、耳たぶをいろんな角度から仔細に観察し、指でその部分をそっとさわる。そうして彼女と触れあえることを、私は嬉しく思う。たとえ小さな指先と耳たぶの間のことであったとしても。

「なにか薬をつけておいた方がいいみたい。塗り薬を作ってあげるから、少し待っていてね」、そして彼女は足早に書庫から出て行く。

 私は目を閉じて、静かに彼女が戻るのを待ち受ける。私の心臓は堅く規則正しく脈打っている。木立の中でキツツキが立てる音のように。私の耳たぶにいったい何が起こったのか、まったく見当がつかない。私は本当に何かに嚙まれたのだろうか? いや、あとが残るほど強く嚙まれたのなら、いくらなんでも嚙まれたときに気がつくはずだ。

 しかし嚙まれるって、たとえば何に? 動物か、あるいは虫か。でも私はこの街で、どんな動物も虫も見かけたことがない(例外は単角獣だが、彼らが夜のあいだにこっそりやって来て私の耳たぶを嚙むとは考えられない)。わけがわからない。


 やがて少女は小さな陶器の鉢を持って戻ってきた。縁が小さくかけた質素な見かけの陶器だ。鉢の中には辛子色のべったりとした軟膏が入っていた。

「即席に作ったものだから、それほど効果はないかもしれないけど、何もつけないよりはいいと思う」

 彼女はそう言って指に軟膏をつけ、私の耳たぶに優しく柔らかく塗り込んでくれた。ひやりと冷たい感触があった。

「君がそれを作ったの?」と私は尋ねた。

「ええ、そうよ。裏庭にある薬草畑から良さそうなものを選んで」

「ずいぶん物知りなんだね」

 彼女は遠慮がちに首を振った。「これくらいのことなら、この街の人ならたいていできるわ。ここには薬を売っている店なんてないから、自分たちで工夫するしかないのよ」


 軟膏を塗り終えてしばらくすると、耳たぶの痛みはいくらかおさまってきた。ひやりとした感触がまだそこに残っていて、それが痛みを抑えてくれるようだった。私がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「よかった」と彼女は言った。「お仕事を終えたら、もう一度塗りましょう」

 私はあらためて机に向かい、意識を集中して古い夢を読み始めた。机の上に置かれたなたね油のランプの炎がゆらりと揺れた。しかし私たちの影が壁に映ることはない。

 この街では誰ひとり影法師を持ち合わせていないのだ。もちろんこの私も。

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