街とその不確かな壁

村上春樹



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 その夜の眠りもまた落ち着かないものだった。

 そしてそこからはっと目覚めたとき、枕元に誰かがいることがわかった。その誰かは無言のうちにじっと私の顔を見おろしているようだった。刺すようなまっすぐな視線を、私は肌にひりひりと感じた。もちろん時刻はわからない。でもそれはとにかく夜のいちばん深い部分だった。これ以上深くはなれないほど深いところだ。

 私はベッドに横になったままうっすらと目を開け、そこにいるのが誰なのか見定めようとした。しかし部屋の暗さに目が慣れるまでに時間がかかった。窓の鎧戸の隙間から僅かに入ってくる月の光が唯一の光源だった。私は相手に気取られないように、鼻でゆっくり静かに呼吸をしながら、時間をかけて暗さに目を慣らしていった。

 しかしそのような暗い部屋の中、どこまでも無防備な状態で、得体の知れない誰かと一緒にいながら、私は不安や恐怖をまるで感じなかった。心臓の鼓動もおおむね平静を保っていた。その安定した鼓動音が、私を落ち着かせてくれた。

 どうしてだろう、と私はいぶかる。真夜中に目覚めると、誰だかわからない誰かが枕元に座って、私の顔を見おろしている。私の心はもっとかき乱されていいはずだ。恐怖を感じてもいいはずだ。それが普通の反応だろう。なのに私はこうして不思議なくらい平静を保っている。なぜだろう?

 その知らない誰かは、私の考えをそのまま読み取ったかのようだった。

「あなたの生まれは水曜日です」とその誰かは言った。若い男の声だ。少し甲高い響きがある。声変わりしてからまだそれほど年月が経っていないかもしれない。

 私の生まれが水曜日?

「あなたは水曜日に生まれました」とその誰かは言った。

 私はベッドの上で身を起こそうと試みたが、身体にうまく力が入らなかった。金縛りにあったように手脚の感覚がつかめない。耳たぶの疼きももう感じられなかった。神経に何か異変が持ち上がったのかもしれない。私は仕方なくそのままの格好でベッドに横になっていた。

 水曜日に生まれたことが、私にとって何かしらの意味を持つのだろうか?

「いいえ、それはあくまで単なる事実に過ぎません。水曜日はただの一週間のうちの一日です」とその若い男は言った。変更の余地のない数学の定理を解説するみたいに簡潔に、感情を込めることなく。

 暗闇の中で相手の顔はまだ見定められなかったが、そこにいるのはイエロー・サブマリンのパーカを着た少年なのだろう。それ以外の可能性は思いつけなかった。彼は夜のいちばん深い時刻に、ここまで私に会いにやって来たのだ。私が水曜日に生まれたという「単なる事実」を挨拶代わりの手土産のようにして。

「ぼくのことを怖がったりしないでください」と少年は言った。「あなたに害を与えるようなことはしません」

 私は小さく肯いた。ほんの僅かだけ顎を動かして。言葉を発しようにも口を開くことができなかったからだ。

「夜中にこのように突然枕元に現れて驚かれたと思いますが、こうする以外に、あなたと二人きりでお話をする機会を持つことができなかったのです」

 私は何度か瞬きをした。瞬きはできる。顎を少し動かすことはできる。しかしそれ以外の身体の部分は言うことをきいてくれない。

「頼みごとがあるのです」と少年は言った。「そのためにぼくはここに来ました。壁を通り抜けて」

 門衛の許可を得ることなくということなのだろうか?

「ええ、そのとおりです」と少年は私の考えを読み取って答えた。この少年にはそういうことができるのだ。

「門衛に知られることなく、眼を傷つけられることもなく、この街に入ってきました。この街にいることを正式に認められてはいません。ですから人目につかないようにこんな時刻にやって来たのです」

 きみには影があるのか、と私は質問した。影を持つ人間がこの街に入ることはできない。

「いいえ、ぼくには影がありません。ぼくは自分の抜け殻をあちらの世界に残してきました。たぶんそれがぼくの影と呼ばれるものなのでしょう。それとも逆に、このぼくが影なのかもしれません。あちらが本体なのかもしれない。どちらにせよ、とにかくぼくはその抜け殻を、誰にも見つからないように、森の奥深くに隠してきたのです。この街に入ってくるために」

 そして彼には私に頼みごとがある。

「はい、ぼくにはあなたに頼みごとがあります。ぼくは〈夢読み〉にならなくてはなりません。古い夢を読む仕事に就くこと、それがぼくのただひとつの願いです。しかしぼくはこの街の住民ではありませんから、正式にその職に就くことはかないません。ですからぼくはあなたと一体になりたいのです。あなたとひとつになれば、ぼくはあなたとして、毎日ここで古い夢を読み続けることができます」

 私と一体になる?

「はい、そうです。とんでもないことのように思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。むしろ自然なことなのです。あなたとぼくが一緒になるというのは。だってぼくはもともとあなたであり、あなたはもともとぼくなのですから」

 私は深く当惑しないわけにはいかなかった。もともと私が彼であり、彼が私である?

「ええ、そうです。どうか信じていただきたいのですが、ぼくらはもともとがひとつだったのです。でもわけあって、このように別々の個体になってしまいました。しかしこの街でなら、もう一度ぼくらは一体になることができます。そしてぼくはあなたの一部となって〈夢読み〉となり、古い夢を読み続けることができます」

 彼が古い夢を読む……それは私がもう古い夢を読まなくていいということを意味するのだろうか?

 少年は言った。「いいえ、そういうことではありません。あなたは今までどおり古い夢を、あの図書館の奥で読み続けます。だってぼくはあなたであり、あなたはぼくなのですから。ぼくの力はあなた自身の力となります。水と水が混じり合うように。ぼくとひとつになることによって、あなたの人格や日常が変化するようなことは決して起こりません。あなたの自由が束縛されるようなこともありません」

 私はなんとか少しでも頭を整理しようと試みた。そして心の中で彼に尋ねた。

 なぜきみは古い夢がそんなに読みたいのだろう?

「なぜならば、古い夢を読むこと、それがぼくの天職だからです。ぼくは〈夢読み〉になるためにこの世に生を受けたのです。しかし〈夢読み〉になるための方法が、ぼくの属する世界ではどうしても見つけられませんでした。それでもこうしてようやくあなたに巡り会うことができました。どうかぼくの言うことを信じて、ぼくとひとつになってください。そしてぼくがこの街で暮らし続けられるようにしてください。ぼくには〈夢読み〉としてのあなたを助けることができます。もしそう望むなら、あなたはいつまでも夜ごとあの図書館に通い、あの少女と会い続けることができます」

 もし私がそう望むなら

 しかし具体的に、どうすればきみと「一体化」することができるのだろう?

「とても簡単なことです。あなたの左側の耳たぶをぼくに嚙ませてください。そうすればぼくらはひとつになれます」

 ということは、どこかで私の右側の耳たぶを嚙んだのはきみなんだね?

「ええ、それを嚙んだのはぼくです。あちら側の世界であなたの右の耳たぶを嚙むことによって、ぼくはこうしてこの街に入ってこられたのです。そしてこちら側の世界で左側を嚙むことによって、あなたと一体化することができます」

 その是非を判断するには時間が必要だ。私は困惑した頭を整理しなくてはならない。痺れた身体を正常な状態に戻さなくてはならない。イエロー・サブマリンの少年とひとつになるかどうか、それは私にとっておそらく重要な決断になるはずだ。それによって私という人間のありようが大きく変わってしまうかもしれないのだ。この見ず知らずの少年の口にすることをそこまで信用していいものだろうか? 何か大事なことを見逃しているのではないだろうか?

「申し訳ありませんが、長く考えている時間の余裕はありません。ぼくはこの街における不法侵入者です。ぼくの存在が門衛の知るところとなれば、とてもまずいことになります。街の誰かがぼくの姿を目にして、門衛に告げているかもしれません。そうすれば、彼は即刻ぼくを捕まえにやって来るでしょう。彼にはそれだけの力があります。ですから、できるだけ早くあなたと一体化する必要があります」

 まだわけがわからなかった。どうしてこの少年が私であり私がこの少年であるのか? それはいったい何を意味するのか?

 しかしなぜかはわからないが、この見ず知らずの少年が落ち着いた声音で語ることを、論理の筋道はよくわからぬまま、そっくり受け入れていいような気持ちに次第になり始めていた。

「はい、ぼくの言うことをどうか信じてください。ぼくとひとつになることによって、あなたはより自然な、より本来のあなた自身になることができるのです。決してあなたを後悔させたりはしません。そして去る時期が来たと思えば、あなたは立ち去ることもできます。そう、空を飛ぶ鳥のように自由に」

 空を飛ぶ鳥のように自由に

 しかしいくら懸命に頭を振り絞っても、考えはひとつにまとまらなかった。意識が次第に霞んできて、やがて何も考えることができなくなった。どうやら私は再び眠りに入ろうとしているようだった。

「眠らないで」と少年は語気鋭く私の耳元で言った。「もう少しだけ起きていて、ぼくに認証を与えてください。あなたの左の耳たぶを嚙んでもかまわないという認証を。今しかその機会はありません。そしてぼくにはどうしてもそれが必要なのです」

 私はひどく眠かった。もう何がどうなってもいいという捨て鉢な気持ちになっていた。一刻も早く眠りという、心地よい休息の世界に沈み込んでしまいたかった。誰にも邪魔してもらいたくない。

 いいよかまわない、と私は夢うつつの中でつぶやいた。そんなに嚙みたいなら嚙めばいい。

 少年は時を移さず私の左の耳たぶを嚙んだ。歯形が残るくらい強く。

 そして私はそのまま深い眠りの世界に落ちていった。

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