街とその不確かな壁

村上春樹



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 私は「官舎地区」と呼ばれる区域に、小さな住居を与えられている。

 住居には生活に最低限必要な、簡単な家具とじゅうが備えられている。一人用のベッドと、丸い木製の食卓、四脚の椅子、いくつかの作り付けの棚、小さな薪ストーブ。そんなところだ。小さなクローゼットと、狭い浴室もついている。しかし仕事用のデスクや、くつろぐためのソファはない。部屋には装飾と呼べそうなものは何ひとつない。花瓶もなく、絵もなく、置物もなく、一冊の本もなく、もちろん時計もない。

 台所では簡単な料理ができるようになっている。もし煮炊きをしたければ、台所用の小型ストーブを使う──電気もガスもない。食器や椅子はどれも質素で使い古されており、形や大きさも不揃いだ。あちこちから急いでかき集められてきたみたいにも見える。窓には木製のよろいがついている。昼間はそれを閉ざして、陽光をさえぎることができるように(私の弱い眼にとって欠かせない設備だ)。入り口のドアに鍵はついていない。この街の人々は家の出入り口に鍵をかけるということをしない。

 その地区は一昔前にはきっと、しょうしゃと言ってもいい街並みだったのだろう。通りでは小さな子供たちが遊び、どこからかピアノの音が聞こえ、犬たちが吠え、夕刻には温かい夕食の匂いがあちこちの窓から漂ってきたはずだ。家々の花壇には美しい季節の花々が咲き乱れていたことだろう。そういう雰囲気がまだところどころに残っていた。そこに住んでいた人々の多くは、その名称通り役所に勤める官吏たちだったらしい。あるいは将校クラスの軍人たち。

 私は昼前に目覚め、支給された食材で簡単な食事を作って食べる。食事らしい食事はこれ一度だけだ。この街では人はそれほど多くの食事をとる必要はないらしい。一日に一度の簡素な食事で用は足りる。そして私の身体も驚くほど早くそのような生活習慣に馴染んでいった。食事を終え食器を片付けたあと、鎧戸を閉ざした暗い部屋にこもり、傷がまだ完全には癒えない眼を休めながら、午後の時間を過ごす。時間は穏やかに流れる。

 私は椅子に座り、自分という身体のおりから意識を解き放ち、想念の広いくさはらを好きなだけ走り回らせる──首輪につけたひもを外し、犬にしばしの自由を与えるように。そのあいだ私は草の上に寝そべり、何を考えるでもなく、空を流れゆく白い雲をぼんやり眺めている(もちろんこれは比喩的表現だ。実際に空を見上げているわけではない)。そのようにして時間はこともなく過ぎていく。必要になったときにだけ、私は口笛を吹いてそれを呼び戻す(もちろんこれも比喩的表現だ。実際に口笛を吹くわけではない)。

 日が傾いてあたりが薄暗くなり始めた頃、門衛がそろそろ角笛を吹き鳴らそうかという時刻に、私は(口笛を吹いて)意識を今一度身体に呼び戻し、家を出て徒歩で図書館に向かう。丘を降りて川沿いの道を上流に向けて歩く。図書館は広場の少し先にある。旧橋を前にする広場には、針のない時計台が何かを象徴するように高くそびえている。


 私の他に図書館を訪れるものはいない。だから図書館はいつだって私と君だけのものだ。

 しかし私の〈夢読み〉の技術には向上らしきものは見られない。私の胸の中で疑問と不安が次第に高まっていく──私が〈夢読み〉に任命されたのは、何かの間違いだったのではあるまいか? 私にはもともと夢を読むような能力はそなわっていないのではないか。私は間違った場所で間違ったことをさせられているのではないか? あるとき作業の合間に、私はそんな不安な気持ちを君に打ち明ける。

「心配しないで」と君はテーブルの向かい側から、私の目をのぞき込むようにして言う。「いま少し時間がかかるだけ。このまま迷いなく仕事を続けてください。あなたは正しい場所で、正しいことをしているのだから」

 君の声は優しく穏やかだが、確信に満ちている。街の高い壁を構成している煉瓦と同じように、堅固で揺るぎない。

 夢読みの合間に、君のこしらえてくれた濃い緑色の薬草茶を飲む。君は時間をかけ、化学者が実験にのぞむときのような真剣な顔つきで、注意深く薬草茶の支度をする──小さなすりこぎやすり鉢や、鍋やしぼり布を使って。図書館の裏手の狭い庭には、各種の薬草を育てる小さな菜園があり、その世話をすることも職務のひとつだ。それらの薬草の名前を尋ねたことがあるが、君もその名前は知らなかった。たぶんそれらの草も、この街の他の多くの事物と同じようにそもそも名前を持たないのだろう。

 一日の仕事を終え、図書館を閉めたあと、私は川沿いの道を上流に向かって歩き、君を「職工地区」の共同住宅まで送る。それが日々の習慣になる。

 秋の雨は我々のまわりで、いつ果てるともなく降り続いた。始まりも終わりもない、静かな細かい雨だ。夜には月もなく星もなく風もなく、夜啼鳥の声も聞こえない。中州に並んだ川柳が、細い枝の先からぽとぽととしずくをしたたらせているだけだ。

 私と君は肩を並べてそんな夜の道を歩きながら、ほとんどただ黙っているだけだ。しかしその沈黙は私には少しも苦痛ではない。私はむしろその沈黙を歓迎したかもしれない。沈黙は記憶を活性化させてくれたから。君の方も沈黙をとくに気にはしない。この街の人々は、多くの食事を必要としないのと同じように、多くの言葉を必要としないのだ。

 雨が降ると、君は分厚いごわごわとした黄色いレインコートを着て、雨用の緑色の帽子をかぶる。私は住居に置かれていた古くて重い蝙蝠こうもりがさを持ち歩いている。君の着たレインコートは、君にはたぶんサイズが二つばかり大きすぎて、歩くときにかさこそという、まるで包装紙を両手で丸めるような音を立てる。何かしら懐かしい響きを持つ音だ。私はそんな君の肩にそっと手を回したかったけれど(かつてそうしたように)、それはここではかなわぬことだ。

「職工地区」の共同住宅の前で君は立ち止まり、乏しい明かりの中で私の顔をしばしの間のぞき込む。眉間に軽くしわを寄せ、まるで何か重要なことを思い出しかけているみたいに。でも結局何も思い出せない。可能性は形をとらないままどこかに吸い込まれ、消えていく。

「また明日」と私は言う。

 君は黙って肯く。

 君の姿が見えなくなり、すべての物音が遠のいてしまってからも、私はしばらくそこに一人で立ち、君があとに残していった気配を無言のうちに味わっている。それから細かく降り続く雨の中を、西の丘にある住まいに向けて一人で歩き始める。

「なにも心配することはありません。ただ時間がかかるだけ」、君はそう言う。

 しかし私にはそれほどの確信は持てない。果たして時間を──この街が時間と称するものを──そこまで信用していいものだろうか? そしてこの果てしなく続くように思える長い秋のあとには、いったい何がやってくるのだろう?

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