街とその不確かな壁

村上春樹



9



 そう、人々はそこでは影を連れて生きていた。

 この街では人は影を持たない。影を棄てたとき初めて、それが確かな重さをそなえていたことが実感される。普段の生活で地球の重力を実感することがまずないのと同じように。

 もちろん影を棄てるのは簡単なことではない。どのようなものであれ、長い年月を共に過ごし、慣れ親しんできた相手と引き離されるのは、やはり心乱されることだ。この街にやって来たとき、私は入り口で門衛に自分の影を預けなくてはならなかった。

「影を身につけたまま壁の内側に足を踏み入れることはできない」、門衛は私にそう告げた。「こちらに預けるか、街に入るのを諦めるか、どちらかだ」

 私は影を棄てた。

 門衛は私を暖かい日向ひなたの中に立たせ、私の影をぐいと摑んだ。影はおびえてぶるぶると震えた。

 門衛は影に向かってぶっきらぼうな声で言った。「大丈夫だ。怖がることはない。何もなまづめを剝がそうってわけじゃないんだ。痛みはないし、すぐに終わる」

 影はそれでも少しばかり抵抗を見せたが、剛健な門衛にかなうわけはなく、すぐに私の肉体から引き剝がされて力を失い、そばにあった木のベンチにずるずるとしゃがみ込んだ。身体から離された影は、思ったよりずっとみすぼらしく見えた。脱ぎ捨てられた古い長靴みたいに。

 門衛は言った。「いったん別々になっちまうと、ずいぶん奇妙な見かけのものだろう。これまで後生大事にこんなものを身にくっつけていたなんてな」

 私は曖昧な返事をした。自分の影をなくしてしまったという実感が、まだうまく持てない。

「影なんて実際、なんの役にも立ちゃしないんだ」と門衛は続けた。「これまで影が何かすごくあんたのためになったって覚えはあるかい?」

 覚えはなかった。少なくとも即座には思い出せない。

「そうだろう」と門衛は得意そうに言った。「そのくせ口だけは一人前に達者ときている。あれはいやだとか、これならまあよかろうだとか、自分一人じゃ何もできんくせに、小理屈だけはたんまり持ち合わせている」

「私の影はこれからどうなるんですか?」

「こちらでお客として大事に預かっておくよ。部屋も寝床も用意があるし、豪華なディナーとはいかないが、食事も三食ちゃんと出してやる。まあ、たまに仕事も手伝ってもらうが」

「仕事?」と私は言った。「どんな仕事ですか?」

「ちょっとした雑用さ。主に壁の外での仕事だが、大した作業じゃない。林檎をもいだり、獣の世話をしたり……季節によって少しずつ違う」

「もし私が影を返してもらいたいと思ったときは?」

 門衛は目を細め、じっと私の顔を見た。まるでカーテンの隙間から無人の室内を検分するみたいに。そして言った。

「ずいぶん長いことこの仕事をしているが、自分の影を返してもらいたいと申し出る人間にはまだお目にかかったことがない」

 私の影はおとなしくそこにしゃがみ込んで、私の方を見ていた。何かを訴えかけるように。

「心配するこたないさ」と門衛は私を力づけるように言った。「あんたも影のない生活にだんだん馴染んでいく。自分が影を持っていたことなんてそのうち忘れちまうさ。そういえばそんなこともあったっけなあ、みたいにな」

 影はしゃがみ込んだまま、門衛の言葉に耳を澄ませていた。私は後ろめたさを感じないわけにはいかなかった。やむを得ないこととはいえ、自分の分身を見捨てようとしているのだから。

「街の出入り口は今ではこの門ひとつしかない」、門衛はむっくりした指でその門をさして言った。「いったんこの門をくぐって中に入ったものは、二度とこの門から外に出ることはできない。壁がそれを許さない。それがこの街の決まりだ。署名したり血判を押したり、そんな大層なことはしないが、なおかつまぎれもない契約だ。そいつは承知しているね」

 わかっている、と私は言った。

「そしてもうひとつ。あんたはこれから〈夢読み〉になるわけだから、〈夢読み〉の眼を与えられることになる。これも決まりだ。眼の具合が落ち着くまで、いくらか不便な思いをするかもしれない。それもわかっているね」

 そうして私は街の門をくぐった。自分の影を棄て、〈夢読み〉の傷ついた眼を与えられ、二度とその門をくぐらないという暗黙の「契約」を結んで。


 その街では(かつて私の暮らしていた街では)、誰もが影を引きずって生きていたよ、と私は君に説明する。影は光のあるところでは人(本体)と行動を共にし、光のないところではそっと姿を隠す。そして真っ暗な時間がくれば、共に眠りに就く。しかし人と影が引き離されることはない。目に見えるにせよ見えないにせよ、影は常にそこにいる。

「影は何か人の役に立っているのですか」と君は尋ねる。

 わからない、と私は言う。

「なのに、どうしてみんなは影を棄てないの?」

「棄て方を知らなかったということもある。でももし知っていたとしても、たぶん誰も影を棄てたりはしないだろうね」

「それはどうして?」

「人々は影の存在に慣れていたから。現実に役に立つ立たないとは関わりなく」

 もちろんそれがどういうことなのか、君には理解できない。

 中州にまばらに繁ったかわやなぎの一本の幹には、古びた木製のボートが一艘ロープで繫がれ、流れがそのまわりで軽やかな音を立てていた。

「私たちは物心がつく前に影を引き剝がされる。赤ん坊のへその緒が切られるみたいに、幼児の乳歯が生え替わるみたいに。そして切り取られた影たちは壁の外に出される」

「影たちは外の世界で、自分だけで生きていくんだね?」

「だいたいはさとに出されるの。なにも荒野の真ん中にぽいと棄てられるわけじゃありません」

「君の影はどうなったのだろう?」

「さあ、それはわかりません。でももうずっと前に死んでいるはずよ。本体から離された影は、根を持たない植物のようなもの。長くは生きられないから」

「君はその影に会ったことはないんだね?」

「私の影に?」

「そう」

 君は不思議そうに私の顔を見る。そして言う。「暗い心はどこか遠いよそにやられて、やがては命を失っていきます」

 私と君は並んで川沿いの道を歩く。風が思いついたように川面を時折吹き抜け、君は両手でコートのえりを合わせる。

「あなたの影も遠からず命を落とすでしょう。影が死ねば暗い思いもそこで消え、あとに静寂が訪れるの」

 君が口にすると、「静寂」という言葉は限りなくしんとしたものに聞こえる。

「そして壁がそれを護ってくれるんだね?」

 彼女はまっすぐ私の顔を見る。「そのためにあなたはこの街にやって来たのでしょう。ずっと遠くのどこかから」


「職工地区」は旧橋の北東に広がるさびれた地域だ。かつては美しい水をたたえていたという運河も今は干上がり、ひからびた灰色の泥が分厚く積もっているだけだ。しかし水がなくなってずいぶん長い年月が経つのに、そこにはまだ湿った空気の記憶が残っている。

 そんなひとのない暗い工場地域を抜けたところに、職工たちの共同住宅が建ち並ぶ一画がある。今にも崩れ落ちてしまいそうな外見の、二階建ての古い木造住宅だ。その住宅に住む人々はひとまとめに「職工」と呼ばれているが、実際に工場で働いているわけではない。それは今では実体を伴わない、ただの慣習的な呼称となっている。工場はとうの昔に操業を停止していたし、建ち並ぶ高い煙突は煙を出すことをやめていた。

 建物の間を迷路のように巡る狭い舗道の敷石には、幾世代にもわたる人々の生活から発せられた様々な匂いや響きが浸み込んでいる。すり減って平たくなった石の上を歩きながら、私たちの靴底は足音さえ立てない。そんな迷路のある地点で君は急に歩みを止め、振り返って私に言う。「送ってくれてどうもありがとう。家までの帰り道はわかりますか?」

「たぶんわかると思う。いったん運河に出てしまえば、あとの道は簡単だから」

 君はマフラーを巻き直し、私に向かって短く肯く。そしてくるりと背中を向け、どれがどれか見分けのつかない暗い木造住宅のひとつの戸口に、素速い足取りで吸い込まれていく。

 私は二つのきつりつした感情のはざを抜け、ゆっくり歩いてうちに帰る。この街で自分はもうひとりぼっちではないという思いと、それでも自分はどこまでもひとりぼっちなのだという思いとの間を。私の心はそのようにまっすぐ二つに裂かれている。川柳の枝が密かな音を立てて揺れる。

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