街とその不確かな壁

村上春樹



18



 来る日も来る日も、図書館の奥で〈古い夢〉を読み続けた。高熱を出して寝込んだ一週間ほどを別にすれば、一日も作業を休まなかった。君もやはり休みなく図書館に出勤し(この街には曜日がなく、したがって週末みたいなものもない)、私の作業を手助けしてくれた。君は修繕の跡の見える、いくらか色褪せた、しかし清潔そうな衣服を身に着けていた。そのような質素な飾り気のない身なりは、どのような衣装にも増して君の美しさと若々しさを際立たせた。肌は艶やかで張りがあり、なたね油ランプの明かりを受けて瑞々しい輝きを放っていた。つい先ほどできあがったばかりのもののように。


 ある夜、私は不思議な夢を見る。いや、それは夢ではなく、書庫で読んだ〈古い夢〉の中のひとつの光景だったかもしれない。あるいは私が病に倒れて、意識が朦朧としているときに、元軍人の老人が枕元で語ってくれた思い出話のひとつだったかもしれない。それが意識に強くこびりついていて、脳裏に再現されたのかもしれない。

 その夢(のようなもの)の中で私は軍人だった。戦争の最中で、私は将校の軍服を着てパトロール隊を率いていた。部下は六人ほど、うちの一人は古参の下士官だった。私の隊は戦闘のおこなわれている山中で偵察活動に従事していた。季節はわからないが、とくに暑くも寒くもなかった。

 朝の早い時刻、山頂近くで、白衣をまとった一群の人々が歩いて行く姿を見かけた。人数は三十名ほどだろう。隊は即座に戦闘の態勢をとったが、すぐにそんな必要のないことが判明した。人々は武装をしていなかったし、その中には老人や女性や子供たちも混じっていたからだ。彼らを止めて「おまえたちは何ものなのか、どこに何をしにいくのか?」と尋問してもよかったのだが、どうせ言葉は通じないだろうと思い、私はそれを諦めた(そう、私たちは遠く離れた異国で戦闘行為をおこなっていたのだ)。

 男女とも同じ白いころもを身に纏っていた。一枚の白いシーツを身体にぐるぐる回して紐で留めたような、粗末で単純な衣だ。誰も履き物は履いていない。宗教団体の信者たちのようにも見える。病院から逃れてきた人たちのようにも見える。誰かに害を与えそうにはとても見えなかったが、私たちは念のために彼らのあとについて様子を見届けることにした。

 白衣の人々は急な坂を上っていった。誰ひとりとして口をきかなかった。先頭に立っているのは、瘦せた長身の老人だった。長い白髪が肩にかかっている。みんなは彼のあとを黙々と歩いていた。やがて彼らは山頂に出た。その右手は切り立った崖になっており、人々はそちらに向かった。そしてまず白髪の老人が崖から身を投げた。何か言葉を発することもなく、迷いの色もなく、ごく当たり前のことをするみたいに、両手を軽く広げて空中に身を投げたのだ。そして他の人々も次々にそれにならった。まるで鳥が空中に飛び立つときのように、何のちゅうちょもなく白衣の袖を広げ、一人ひとりふわりと空中に身を投じていった。女たちも子供たちも一人残らず、表情を寸分も変えることなく。見ていて、この人たちは本当に空を飛べるのかもしれないと思ったほどだ。

 しかしもちろん彼らには空なんて飛べなかった。私たちは走って崖っぷちまで行き、おそるおそる下をのぞき込んだ、谷底には死体が散乱していた。彼らの纏っていた白衣は旗のように広がり、飛び散った血や脳髄に染まっていた。谷底には岩場が鋭い牙を並べて待ち構えており、それらが人々の頭を粉々に砕いたのだ。それまで戦場で多くの悲惨な死体を目にしていたが、それでもその谷底に広がる血みどろの光景には、目を背けたくなるものがあった。そして私たちをなにより震撼させたのは、彼らの寡黙さと無表情さだった。どんな事情があるにせよ、自らの無残な死を目前にしてあれほどまで冷静で無感覚でいられるものだろうか?

「なぜだ」と私は隣にいた軍曹に尋ねた。「彼らはいったい何ものなんだ? なぜこんなことをしなくてはならないんだ?」

 軍曹は首を振った。「たぶん、意識を殺すためでしょう」と彼は乾いた声で言った。そして手の甲で口元を拭った。「時にはそれが、なにより楽なことに思えるのです」


「私の影が死にかけているみたいだ」、私はある夜、図書館で君にそう打ち明ける。

 我々はストーブの前で、テーブルを挟んで向き合っていた。その夜、君は熱い薬草茶と一緒に、白いパウダーのかかった林檎菓子を出してくれた。林檎菓子はこの街では貴重な食べ物だ。きっと門衛から林檎をもらい、私のためにそれを作ってくれたのだろう。

「そう長くはもつまい」と私は言う。「ずいぶん弱っているようだから」

 君はそれを耳にして、少しばかり顔を曇らせる。そして言う。「気の毒だとは思うけれど、仕方のないことね。暗い心は遅かれ早かれ死んで、滅びていくのよ。諦めなくては」

「君は自分の影のことを覚えている?」

 君は細い指先でそっと自分の額をさする。まるで物語の筋を辿たどっているみたいに。

「前にも言ったように、まだ幼い頃に影を引き剝がされて、それ以来一度も会っていない。だから自分の影を持つというのがどういうことか、私にはわからないの。それは……なくしてしまうと不便なものなの?」

「よくわからないな。今のところ影と引き離されていても、格別困ったことがあるわけじゃない。でももし影が永遠に失われてしまったら、それと一緒に他の大事な何かも失われてしまうんじゃないか──そんな気がする」

 君は私の目をのぞき込む。「他の大事な何かって、たとえばどんなもの?」

「うまく言えない。影を永遠に失うのが具体的にどういうことなのか、それがつかめないんだ」

 君はストーブの扉を開け、薪を何本か足す。ひとしきりふいごを使って火を活性化させる。

「それで、あなたの影はあなたに何かを求めているの?」

「私ともう一度一緒になりたがっている。そうすれば影は元の生命力を取り戻すことができる」

「でももし影と再び一緒になったら、あなたはこの街に留まることはできない」

「そのとおりだ」

 頭に皿を載せたまま空を見上げることはできない、と門衛は私に告げた。

「だとしたら、やはり影を諦めるしかないんじゃないかしら」と君は静かな声で言う。「影には気の毒だけれど、あなたはこの街での、影を持たない暮らしに慣れていく。しばらくすれば影のことは忘れてしまうでしょう。他のみんなと同じように」

 私は林檎菓子を一切れ口に入れ、林檎の香りを味わう。口の中に甘酸っぱい新鮮な味わいが広がっていく。なんて美味い林檎だろうと私は感心する。考えてみればこの街にやって来てから、何かを食べて「美味い」という感覚を持ったのは初めてかもしれない。

 君の瞳にストーブの光がきらりと反映する。いや、それは反映ではなく、君自身の中に内在している光だろうか。

「なにも心配することはないわ」と君は言う。「あなたはここに来てから、ずいぶん立派に仕事を果たしているもの。みんなが感心するくらい。これからもきっとうまくいくわ」

 私は肯く。

 みんなが感心するくらい

Table of contents

previous page start next page