街とその不確かな壁

村上春樹



20



 その午後、獣を焼く灰色の煙が壁の外に立ち上るのを見届けてから、急ぎ足で門衛小屋に向かった。風はなく、煙は一本の線となって立ち上り、分厚い雲の中に吸い込まれていった。門衛は予想したとおり今回も不在だった。門の外に出て獣の死体を焼いているのだ。私は前と同じように、無人の門衛小屋の裏口を抜けて「影の囲い場」を横切り、寝床に横になっている自分の影と再会した。影は相変わらず瘦せこけて顔色が悪く、ときおりつらそうに空咳をした。

「どうです、心は決まりましたか?」、影はしゃがれた声で、待ちかねていたように尋ねた。

「悪いけれど、簡単には決心がつかない」

「何かが心にひっかかっているんですか?」

 私は答えに窮して顔を背け、窓の外に目をやった。どのように彼に説明すればいいのだろう?

 私の影はため息をついた。「何があったのかは知りませんが、たぶん街はあんたを引き留めにかかっているのだと思います。いろんな策を用いて」

「でも私は街にとってそれほど大事な存在なのだろうか? わざわざ策を用いて引き留めなくてはならないほど」

「当然じゃありませんか。だってあんたがこの街をこしらえたようなものなんだから」

「なにも私一人でこしらえたわけじゃない」と私は言った。「ずっと昔、その作業にいくらか手を貸しただけだ」

「でもあんたの熱心な助力なくしては、ここまで綿密な構築物はできあがらなかったはずです。あんたがこの街を長きにわたって維持し、想像力という養分を与え続けてきたんです」

「たしかにこの街は、我々の想像の中から生み出されたものかもしれない。しかし長い歳月のあいだに、街は自らの意思を身につけ、目的を持つようになったみたいだ」

「もうあんたの手には負えないものになっている──そういうことですか?」

 私は肯いた。「この街は構築物というより、命をもって動いている生き物のように見えることがある。柔軟で巧妙な生き物だよ。状況に合わせて、必要に応じてその形を変化させていく。それはここに来て以来、うすうす感じていたことだ」

「しかし自由に形を変えるとなると、それは生き物というより細胞か何かのようですね」

「そうかもしれない」

 思考し、防御し、攻撃する細胞。

 我々はしばらく沈黙する。私は再び窓の外に目をやる。壁の外にはまだ煙が立ち上っている。多くの獣たちが命を落としていったようだ。

「私が毎夜、図書館で読み続けている古い夢とは、いったい何なのだろう?」と私は影に尋ねる。「それはこの街にとってどんな意味を持っているのだろう?」

 影は力なく笑った。「困りましたね。だってそれを毎日読んでいるのは、あんたじゃありませんか。どうしてまた、そんなことをおれに尋ねるんです?」

「でも君はここにいて、それについての話は何か耳にしているだろう。門衛や、ここを訪れる人たちから」

 影は静かに首を振った。「図書館に古い夢が集められて、夢読みが──つまりあんたが──それを日々読んでいるってことはみんな知っています。そしてあんたが毎晩、作業を終えたあとに彼女を家まで送り届けていることもね……なにしろ小さな街ですから。でもあんたが日々古い夢を読むことが、街にとって何を意味するのか、どんな役割を果たしているのか、本当のところは誰も知らないんじゃないか。そんな気がしますよ」

「でもそれは重要な意味を持つ作業であるはずなんだ。私はこの街で、それを読む特別な役目を与えられているし、街は私がその作業を続けることを強く望んでいるらしい」

 影はひとしきり乾いた咳をし、しばらく考え込んでいた。私はポケットに入れていた両手を出して、膝の上で擦り合わせた。部屋は冷え込んでいた。

 影は言った。「前にも言ったことですが、ここにいる彼女が実は影で、壁の外にいた彼女が実は本体だったという可能性は考えられませんか? おれはずっとそのことが気になっていて、ここに来る人たちに話を聞いて、切れ切れの情報を集め、おれなりに考えを巡らせました。そしてこういう仮説を得たんです。ここは実は影の国なんじゃないかって。影たちが集まり、この孤絶した街の中でみんなで身を寄せ合い、息を凝らすように暮らしているんじゃないかって」

「でももし君が言うように、ここが影たちの国であるなら、なぜ本体である私が街に入り、影である君がここに閉じ込められて死にかけているんだ? 逆なら話はわかるけれど」

「おれが思うに、ここにいる連中は自分たちが実は影だってことを知らないからです。自分たちは本体であって、引き剝がされた影は壁の外に追いやられたと思っています。でも実際には逆なんじゃないか。壁の外に追いやられたのは本体の方で、ここに残っている連中こそが影なんじゃないか──それがおれの推測です」

 私はそれについて考えてみた。「そして壁の外に追放された本体たちは、自分たちは影だと思い込まされている。そういうことなのか?」

「そのとおりです。そういう偽りの記憶をそれぞれにすり込まれたんです」

 私は両手を擦り合わせながら、その論理の筋を辿ろうと努めた。でも途中でわけがわからなくなった。

「しかしそれはあくまで君の立てた仮説に過ぎない」

「そうです」と影は認めた。「すべてはおれの立てた仮説に過ぎません。証明はできません。でも考えれば考えるほど、その方が筋の通ったものに思えてきます。いろんな角度から、おれなりにじっくり細かく検証してみました。なにしろ考える時間だけはふんだんにありますから」

「君のその仮説に従えば、私が図書館で読んでいる古い夢は、どのような役目を果たしているのだろう?」

「それもあくまで仮説の延長に過ぎませんが」

「仮説の延長でかまわない。聞かせてほしい」

 影は間を置いて呼吸を整え、それから口を開いた。

「古い夢とは、この街をこの街として成立させるために壁の外に追放された本体が残していった、心の残響みたいなものじゃないでしょうか。本体を追放するといっても、根こそぎ完璧に放り出せるわけではなくて、どうしてもあとにいくらかのものが残ります。それらのざんを集めて古い夢という特別な容器に堅く閉じ込めたのです」

「心の残響?」

「ここではまだ幼いうちに本体と影とが別々に引き剝がされます。そして本体は余分なもの、害をなすものとして壁の外に追放されます。影たちが安らかに平穏に暮らしていけるようにね。でもたとえ本体を放逐しても、その影響がすべてきれいに消えてなくなるわけじゃない。除去し切れなかった心の細かい種子みたいなものがあとに残り、それが影の内部で密かに成長していきます。街はそれをめざとく見つけてこそげ取り、専用の容器に閉じ込めてしまうんです」

「心の種子?」

「そうです。人の抱く様々な種類の感情です。哀しみ、迷い、嫉妬、恐れ、苦悩、絶望、疑念、憎しみ、困惑、おうのう、懐疑、自己憐憫……そして夢、愛。この街ではそういった感情は無用のもの、むしろ害をなすものです。いわば疫病のたねのようなものです」

「疫病のたね」と私は影の言葉を繰り返した。

「そうです。だからそういうものは残らずこそげ取られ、密閉容器に収められ、図書館の奥に仕舞い込まれます。そして一般の住民はそこに近寄ることを禁止されている」

「じゃあ私の役目は?」

「おそらくそれらの魂を──あるいは心の残響を──鎮めて解消することにあるのでしょう。それは影たちにはできない作業だ。共感というのは、本物の感情をそなえた本物の人間にしか持てないものだから」

「でも、どうしてそれをあえて鎮めなくちゃならないのだろう? 密閉容器に封じ込められ、深い眠りをむさぼっているのなら、そのまま放っておけばよさそうなものだが」

「どれだけきつく封じ込められていても、それらがそこに存在しているってこと自体が脅威なんです。それらが何かの拍子に力をつけ、一斉に殻を破って外に飛び出してくること──それが街にとって潜在的な恐怖になっているのではないでしょうか。もしそんな事態が生じたら、街はあっという間にはじけ飛んでしまうでしょう。だからこそそれらの力を少しでも鎮めて解消しておきたいんです。誰かが古い夢たちの声に耳を傾け、見る夢を一緒に見てやることで、その潜在熱量がなだめられる──彼らはおそらくそれを求めているのでしょう。そしてそれができるのは、今のところあんた一人しかいません」


 私は二つの思いの狭間に立たされている。

 この街の図書館で日々君と顔を合わせ、なたね油のランプの投げかける明かりに照らされ、夢読みの作業を共にすることの幸福。粗末なテーブルをはさんで君と語り合い、君が私のために作ってくれた薬草茶を飲む愉しみ。毎夜、仕事の終わったあと、君を家まで歩いて送るひととき。そのどこまでが実体なのか、どこからが虚構なのか、私にはわからない。それでもこの街はそのような歓びを、心の震えを私に与えてくれている。

 そしてもうひとつは、壁の外の世界でのきみとの交流、そしてそれが私の心に残していった確かな記憶だ。きみと待ち合わせた小さな街中の公園、少女たちが乗ったブランコが立てるリズミカルな軋み。きみと一緒に聴いた海の波音。分厚い手紙の束と、一枚のガーゼのハンカチーフ。密やかな口づけ。それらは疑いの余地なく、現実に鮮やかに起こったことだ。誰もその記憶を私から奪うことはできない。

 どちらの世界に属するべきなのだろう? 私はそれを決めかねている。

Table of contents

previous page start next page