街とその不確かな壁

村上春樹



26



 影は長いあいだ私の顔を見つめていた。何かを言おうと何度か試みたが、そのたびに言葉を呑み込んだ。うまく嚙み切れない食物を、諦めて喉の奥に送り込むみたいに。おそらく相応ふさわしい言葉が見つけられなかったのだろう。彼はうつむいて、凍えた地面にブーツの先で小さな図形を描いた。そしてすぐに靴底でごしごしとその図形を消し去った。

「よくよく考えた末のことなんでしょうね」と彼は言った。「ただここに飛び込むのがおっかないから、というのではありませんよね?」

 私は首を振った。「いや、もう怖くはない。さっきまではたしかに恐怖を感じていたけど、今はもうそんなことはない。君の言うことはそれなりに真実なのだろう。そうしようと思えば、ぼくらは一緒にこの壁を無事にくぐり抜けられると思う」

「それでもやはり、あんたはここに残るんですね?」

 私は肯いた。

「それはどうしてでしょう?」

「まずだいいちに、もとの世界に戻ることの意味がどうしても見いだせないんだ。ぼくはその世界でますます孤独になっていくだろう。そして今より更に深い闇と直面することになるだろう。ぼくがその世界で幸福になることは、まずあり得ない。もちろんこの街だって完全な場所とは言えない。君が指摘したように、この街は多くの矛盾をはらんで成立している。そしてその矛盾を解消するために、つじつまを合わせるために、いろんな複雑な操作がおこなわれている。そして永遠というのは長い時間だ。そのあいだにぼくの個体としての意識は徐々に薄らぎ、ぼくという存在はこの街に呑み込まれていくかもしれない。でももしそうだとしても、それでかまわない。ここにいれば少なくともぼくは孤独ではない。この街で自分がとりあえず何をすればいいのか、何をするべきなのか、それがわかっているから」

「古い夢を読むことですね」

「誰かがそれを読んでやらなくてはならないんだ。殻の中に閉じ込められて埃をかぶっている無数の古い夢を、誰かが解き放っていかなくてはならない。ぼくにはそれができるし、彼らはそれを求めている」

「そして図書館の書庫のどこかには、彼女の残した古い夢がひっそり眠っているかもしれない」

 私は肯いた。「あるいはそうかもしれない。君の立てた仮説が正しければ、ということだけれど」

「でも、それがあんたの心の求めていることのひとつになっている」

 私は沈黙を守った。

 影は深いため息をついた。

「もしあんたをここに残したまま、壁の外に出て行ったとしたら、おれは遠からず死んでしまうことでしょう。おれたちはなんといっても本体と影です。離ればなれになって長くは生きられません。おれはかまいませんよ。だってもともと従属物に過ぎませんから」

「あるいは君は外の世界でうまく生き延びて、ぼくの代わりを務められるかもしれない。見るところ、君にはそれだけの資格があり、知恵がそなわっている。どちらが影でどちらが本体か、そのうちにわからなくなってしまうかもしれない」

 影はしばらくそれについて考えていた。そして小さく首を振った。

「おれたちはどうやら、仮説に仮説を重ねているみたいですね。何が仮説だか、何が事実だか、だんだんわからなくなってきます」

「そうかもしれない。でも何かは必要なんだ。行動を決断するのに必要な、もたれかかれる柱のようなものが」

「やはり決心は固いんですね?」

 私は肯いた。

「でもそれはそれとして、何はともあれ最後までおれにつきあって、ここまで見送ってくれた」

「正直なところ、最後の最後までどちらに転ぶかは、自分でも定かじゃなかった。この溜まりの前に実際に立つまではね」と私は言った。「でももう既に心は決まったし、その決心が揺らぐことはない──ぼくは一人でこの街に残る。君はここから出て行く」

 私と影はお互いの目を見つめ合った。影は言った。

「長年の相棒として決してすんなり賛同はできませんが、どうやら決心は固そうだ。これ以上説得はしません。ここに残るあんたの幸運を祈ります。だから出て行くおれの幸運も祈って下さい。かなり真剣に」

「ああ、もちろん心から真剣に幸運を祈るよ。君にとっていろんなことがうまく運ぶといい」

 影は右手を私の方に差し出した。私はそれを握った。自分の影と握手をするなんて、どうも不思議なものだ。自分の影が人並みの握力と体温を持っているなんて、それもまた不思議なものだ。

 彼は本当に私の影なのだろうか? 私は本当の私なのだろうか? 影が言うように、何が仮説で何が事実なのか、だんだんわからなくなってくる。

 影はまるで虫が殻から抜け出るときのように、重く湿ったコートを脱ぎ、ブーツを足からもぎ取った。

「門衛に謝っておいてくださいな」と彼は淡い微笑みを浮かべて言った。「小屋から勝手に角笛を持ち出して、獣を動かしちまったことでね。仕方なかったこととはいえ、きっと腹を立てているでしょうから」

 私の影は降りしきる雪の中に一人で立ち、しばらく溜まりの水面を眺めていた。そして大きく一度深呼吸をした。吐いた息は堅く白かった。それからこちらを振り向くこともなく、頭から勢いよく溜まりの中に飛び込んだ。瘦せた身体にしてはしぶきが思いのほか大きく上がり、水面に大きな波紋が広がった。私はその波紋が幾重にも輪を広げ、そして次第に収まっていくのを見つめていた。ようやく波紋が消えると、あとには前と同じ静かな水面が残った。洞窟が水を吸い込む、例のごぼごぼという不吉な音が耳に届くだけだ。どれだけ待っても、私の影はもう二度と水面に浮かび上がってはこなかった。

 それからも長い時間、私はそのぴたりと乱れない水面を眺めていた。ひょっとして何か思いもかけぬことが起こるかもしれない。しかし何ごとも起こらなかった。無数の雪片が音もなく水面に落ち、溶けて吸い込まれていくだけだ。

 やがて私は向きを変え、二人でやって来た道を一人で引き返した。一度も背後を振り返らなかった。高く草の茂った小径を抜け、廃屋の前を過ぎ、急な丘を登って下った。旧橋を渡って住まいとしている官舎に帰り着くまで、誰とも出会わなかった。街の住人はこんなひどい雪の日にはまず外出しない。そして獣たちは偽りの角笛によって、既に壁の外に出されていた。

 うちに戻ると私はまずタオルで濡れてこわばった髪を丹念に拭き、オーバーコートについた凍った雪をブラシで払った。靴に付いた重い泥もへらできれいに落とした。ズボンにはたくさんの草の葉がこびりついていた。古い記憶の小さな破片のように。それから私は椅子に深く腰を下ろし、堅く目を閉じて、あてもなくいろんなことを思い巡らした。どれくらい長くそうしていただろう?

 無音の暗闇が部屋を包み始める頃、私は帽子をぶかにかぶり、コートの襟を立て、川沿いの道を図書館に向かった。雪は降り続いていたが、傘は差さなかった。少なくとも今の私には向かうべき場所があるのだ。

Table of contents

previous page start next page