街とその不確かな壁

村上春樹



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 最後の藪を急ぎ足で抜け、溜まりの見える草原に出た。溜まりに着くと、私は影を背中から下ろした。影はまだいくぶんふらついてはいたが、なんとか自分一人で歩ける状態にまで回復していた。瘦せこけた顔に僅かに血色が戻っていた。ずいぶん長いあいだ密着していたのだが、その時点では私と影とはまだひとつになっておらず、相変わらず離ればなれの存在だった。一体化できるだけの活力を、影はまだ取り戻していないのかもしれない。

「負ぶってもらっている間に必要な養分を受け取ることができました」と影は言った。「十分とはいえませんが、用は足りるはずです。一息入れてから脱出にかかりましょう」

 私はそこに立ち、呼吸を整えながら注意深く周囲を見回した。溜まりの様子は前に見たときと変わりない。美しく澄んだ青い水、さざ波ひとつない穏やかな水面、深い底から断続的に聞こえる、喉を詰まらせたようなごぼごぼという水音。そこに時折、不穏な喘ぎが混じる。洞窟に吸い込まれていく大量の水が立てる音だ。他には何の音も聞こえない。風もぴたりと止んでいる。飛ぶ鳥の姿もない。あたり一面に無音の純白な雪が降りしきっている。なんて美しい風景だろうと私は思った。心を打たれた、と言ってもいい。私はこの風景を、おそらく息を引き取るその瞬間まで鮮やかに覚えていることだろう。そのときには、風景のあらゆる細部が脳裏にそっくり再現されるに違いない。

 頭の内で現実と非現実が激しくせめぎ合い交錯した。私は今まさに、こちらの世界とあちらの世界との狭間に立っている。ここは意識と非意識との薄い接面であり、私は今どちらの世界に属するべきなのか選択を迫られている。

「ここから無事に脱出できるという確信があるんだね」と私は溜まりを指さして私の影に尋ねた。

 影は言った。「この溜まりは壁の外の世界にじかにつながっています。この底にある洞窟に入って、壁の下を泳ぎ抜けさえすれば、外の世界に顔を出すことができます」

「溜まりは石灰岩の地底の水路につながっていて、洞窟に吸い込まれたものはみんな、その暗闇の中で溺れて死んでいくという話だ」

「そいつは人々を怯えさせるために街がこしらえた噓っぱちです。地底の迷路なんて存在しやしません」

「そんな面倒なことをするより、人々が近づけないように、溜まりを高い塀か柵で囲ってしまった方が手っ取り早いだろう。わざわざ念入りな噓をこしらえるより」

 影は首を振った。「それが彼らの知恵の働くところです。街はこの溜まりのまわりに、恐怖という心理の囲いをきびしく巡らせています。塀やら柵なんかより、その方が遥かに効果的なんです。いったん心に根付いた恐怖を克服するのは、簡単なことじゃありませんから」

「君にはなぜそんなに確信があるんだろう?」

 影は言った。「前にも言ったことですが、この街は成り立ちからして多くの矛盾を抱えています。街を存続させるには、それらの矛盾点をうまく解消しなくちゃなりません。そのためのいくつかの装置が設けられ、制度として機能しています。念の入ったシステムです」

 影は白い息を吐き、両手をごしごしと擦った。

「装置のひとつは気の毒な獣たちです。獣たちを日々門から出入りさせることによって、また季節を巡らせて彼らを繁殖させたり淘汰したりすることで、街は潜在的なエネルギーを外に放出し処理しています。あんたがここでやっていた図書館の夢読みも装置のひとつです。古い夢として集積された精神の断片が、その作業によって昇華され、宙に消えていきます。おれが言いたいのは、この街はとても技巧的な、人工的な場所だってことです。すべての存在の均衡が精妙に保たれ、それを維持するための装置が怠りなく働いている」

 影の言ったことを呑み込むのに少し時間がかかった。

「そしてそのバランスを維持するために、街は恐怖心を手段として用いている。そういうことなのか?」

「そのとおりです。南の溜まりが危険な場所だという情報を、街は人々の頭に植え付けています。なぜなら街の住民が壁の外に出る手段は、この溜まり以外にないからです。北の門は門衛が目を光らせているし、東門は塗り込められ、川の入り口は頑丈な鉄格子で塞がれています。壁の外に出たいと考える人間がそれほど多くこの街にいるとは思えませんが、それでも街は脱出の可能性を封じ込めようとしているのです」

「しかし我々はそれを恐れる必要はない」

 影は肯いた。「恐れる必要はありません。あんたは幸いなことにまだ魂を奪われてはいない。おれたちはここでひとつになり、溜まりを抜けて外の世界に戻ります」

 私の耳の中に、先ほどの壁の声が再び鳴り響いた。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。そして大きな笑い声。

「怖くはないのか?」と私は影に尋ねた。「地下の暗黒の中で溺れて死んでいくかもしれないことが」

「もちろん怖いです。考えるだけでおっかない。しかしおれたちはもう心を決めたんです。そもそもこの街をこしらえたのはあんたじゃありませんか。あんたはそれだけの力を持っている。実際にさっき、目の前にそびえる堅い壁をくぐり抜けることができました。そうですよね? 大事なのは恐怖に打ち克つことです。それにあんたは泳ぎが得意じゃありませんか。息だって長く詰めていられるし」

「しかし君はどうなんだ? 泳げるのか?」

 影は力なく笑った。そして両手を広げた。「弱ったな。だっておれはあんたの影ですよ。あんたが泳げば、おれだって隣で同じように泳いでいた。同じペースで同じ距離をね。泳げないわけがないでしょう」

 そうだ、私たちは並んで、同じように泳ぐことができるのだ。私は空を見上げ、冷ややかな雪を顔に受けた。

「君の主張には説得力がある」と私は影に言った。

 影はそれを聞いて力なく笑った。「お褒めいただいて光栄です。しかしこれはある意味、あんた自身が自分で考えて、自分に向けてしゃべっていることでもあるんですよ。なんといってもおれはあんたの影なんだから」

「君の言っていることはたしかに筋が通っているみたいだ」

「じゃあ、そろそろ飛び込みましょう。水泳を楽しむにはいささか季節外れですが」

 私はそこに立ったまましばし沈黙していた。もう一度厚い雪雲に覆われた空を見上げ、それから影の顔を正面からまっすぐ見た。心を決め、思い切って言った。

「しかしそれでも、ぼくはこの街を出て行くことはできない。悪いけど、君ひとりで行ってくれ」

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