街とその不確かな壁

村上春樹



37



「はいもうこの世に生きてはおりません。凍えた鉄釘に劣らず、命をそっくりなくしております」

 私は彼が口にしたことについてしばらく考えてみた。凍えた鉄釘に劣らず命をなくしている? 何かを言わなくてはならないのだろうが、何をどう言えばいいのか、言葉が見つからなかった。

「あなたが亡くなっているということに間違いはないのですね?」とようやく私は言ったが、いったん口に出してみると、それはひどく馬鹿げた質問に聞こえた。

 しかし子易さんは生真面目な顔でこっくりと肯いた。

「はい、死んでいることに間違いはありません。なんといっても自分の生き死にのことですから、それについてのわたくしの記憶は確かですし、役所には然るべき公的な記録も残っておるはずです。そして町の寺の墓地には、ささやかながらわたくしの墓も建っております。お経もあげてもらいましたし、どんなものだったかよく覚えておりませんが、いちおう戒名もいただきました。死んだことにあくまで間違いはありません」

「でも、こうして向かい合ってお話ししていると、死んだ人のようにはとても見えませんが」

「はい、たしかに見かけは生きていたときと同じかもしれません。このように、いちおうは筋の通った会話を交わすこともできます。しかしわたくしが死んでいる、もうこの世のものではないという事実に、なんら変わりはありません。誤解を恐れることなく、昔ながらの便宜的表現を用いるなら、今のわたくしは幽霊とでも言うべき存在なのです」

 部屋に深い沈黙が降りた。子易さんは口元に微かな笑みを浮かべ、膝の上で両手をごしごしと擦り合わせながら、ストーブの火を見つめていた。

 この人は冗談を言っているのかもしれない、ただ私をからかっているのかもしれない──そういう可能性が私の頭をよぎった。通常の場合であれば、それは十分あり得る可能性だ。人によっては真顔で冗談を言うし、人をからかいもする。しかしどう考えても、子易さんはそのような冗談を口にして喜ぶタイプの人ではなかった。それになんといっても、彼は実際に影を持っていないのだ。当たり前の話だが、冗談でちょっと影を消すというわけにはいかない。

 現実という言葉が私の中で本来の意味を失い、ばらばらにほどけていった。何が現実であるかを確かめるために必要な基準の柱を、私はもう持ち合わせていないようだった。混乱した意識の中でゆっくり首を振ると、壁に映った私の長く黒い影も、同じようにゆっくり首を振った。その動作は実際よりいくぶん誇張されてはいたが。

 怖いか? いや、とくに怖いとは思わない。どうしてかはわからないが、たとえ私が今目の前にしているこの老人が本当に幽霊なのだとしても、彼と夜中の部屋に二人きりで向き合っていることに、私は恐れをまったく感じなかった。そう、それは十分あり得ることなのだ。死んだ人と話をして何がいけないのだろう?

 しかし疑問点は数多くあった。当たり前の話だが、幽霊に関して我々が知らないことは数限りなくある。

「はい、わたくしにもわからないことは数限りなくあります」と子易さんは私の考えを読んだように言った。「なぜわたくしが死んで無に帰することもなく、こうして意識を保ち、仮初めの姿かたちを保ち、この図書館に留まり続けていられるのか、自分でもよくわからんのです」

 私は何も言わず子易さんの顔をじっと眺めていた。

「意識というのはまったくもって不思議なものです。そして、死んでからもなお意識があるというのは、ああ、もっと更に不思議な気のするものです。『意識とは、脳の物理的な状態を、脳自体が自覚していることである』という説を何かの本で読んだことがあります。はて、いかがなものでしょう、それは果たして正しい定義なのでしょうか? どうお考えになります?」

 意識とは脳の物理的な状態を脳自体が自覚していることである

 私はそれについて考えてみた。

「そういわれれば、そういうことになるかもしれませんね。筋としては正しいように聞こえますが」

「はい、であるとすれば、わたくしにはまだ脳が存在しているということになります。そうですね? 意識があれば、ああ、そこには必然的に脳がある。しかし、身体はもう存在していないけれど、なおかつ脳は今も存在しているというようなことがあり得るでしょうか? 果たしてそんなことが起こり得るでしょうか?」

 子易さんの話に追いついて行くには、ある程度の時間と努力が必要だった。なにしろその話の筋道は、日常生活のレベルからは大いにかけ離れたものだったから。私は間を置いてから、思い切って尋ねた。

「それでは、子易さん、あなたの身体はもう存在していないのですか?」

 子易さんはこっくりと肯いた。

「はい、わたくしの身体はもうこの世界に存在してはおりません。今はとりあえず、ああ、生きていたときの子易の姿かたちをこのようにとってはいますが、これをこのまま長時間継続することはかないません。一定の時間が経過しますと、煙のごとく宙に消えて無と化してしまいます。あくまで仮初めの一時的な姿かたちなのです。もちろん大して褒められた見かけではありませんが、今のところこれ以外にわたくしのとれる姿かたちはありませんので」

「でも意識は継続する?」

「はい、意識はそのまましっかり継続しております。肉体がなくとも意識はちゃんとあるのです。それはわたくしにとって大きな謎です。肉体がないのに、そして肉体がなければ必然的に脳もないはずなのに、それでいてなおかつ意識が通常に機能しておるということが。はあ、こうして、死んでもなおかつわからないことがあるというのは、なんだか奇妙なものです。いったん死んでしまえば、生きているときとは違って、謎みたいなものとは無縁になってしまうだろうと、生きているときには漠然と考えておったものですが」

「脳と肉体の他に、それとは別に、魂という存在があるとは考えませんか?」と私は尋ねた。

 子易さんは少し唇を曲げ、じっくり考え込んでいた。

「はい、そうですね、魂について考えたことはあります。しかし考えれば考えるほど、魂とは何かというのは深い謎であります。死んで、こうして幽霊になってからも、というか、幽霊になってしまったからこそと申しましょうか、わたくしには余計にそれがわからなくなってしまったのです。多くの人は『魂』という言葉を好んで口にします。しかし魂がどんなものなのか、それを明確にわかりやすく定義し、説明してくれた人はいません。その言葉はあまりにも頻繁にいろんな局面において使われるものですから、みんな魂というものはわたくしたちの体内に怠りなく存在すると、漠然とではありますが信じております。でも、実際に死んでみればわかることですが、魂なんていうものは目にも見えませんし、手でも触れられません。それを用いて何か特別なことをする、みたいなこともかないません。わたくしが思いますに、実際に我々の頼りになるのは、なんといっても意識と記憶だけです」

 私はそれについてはとくに個人的意見を述べなかった。死者が目の前に現れて、「魂なんてあるかどうかもわからない」と言うとき、それについてどんな反論ができるだろう?

「それで、子易さんはいったいどのようにして亡くなられたのですか?」と私は尋ねた。「そしてどうやって、その、つまり、幽霊になられたのですか?」

「はい、自分が死んだときのことはよくよく覚えております。わたくしが落命した直接の原因は心臓発作でありました。とにかくあっという間もなく死んでしまったのです。ああ、自分は死につつあるんだというようなことさえ考えもしませんでした。考える暇もなかったのです。よく人は死ぬる瞬間に、一生の出来事が走馬灯のように駆け巡ると申しますが、わたくしの場合はそんなものひとかけらも出てきませんでした」

 子易さんはしばらく腕組みをして首を深く傾げていた。そして話を続けた。

「もともと心臓はあまり丈夫ではなかったのですが、それまで大きな問題が起きたこともなく、またその一週間前に郡山の病院で年に一度の健康診断を受けたばかりでありました。そのとき『とくに変わったところはない』と医師に言われました。ですから自分が心臓発作で死ぬことになるなんて、思いもしません。ところがある朝、出し抜けにそれが起こったのです。わたくしの経験から申し上げまして、人生における重要なものごとは、たいてい予想もしないときに起こるものです。そして死ぬというのはまあ、人生におけるかなり重要なものごとのひとつでありますから」

 子易さんはそこでくすくすと小さく笑った。

「わたくしはその朝、近所の山を一人で散歩しておりました。杖をついて、その杖の手元には熊よけの鈴をつけておりました。季節は秋で、その時期には時折、冬眠前に栄養をつけるために、熊が里近くまで降りてきます。でも鈴を鳴らしながら歩けば、人が襲われる心配はまずありません。少なくともそのように教えられました。そういう山歩きがわたくしのささやかな健康法だったのです。ところがその散歩の途中で、急に目の前がうっすら白っぽくなって、意識が少しずつ遠ざかっていくような感覚がありました。これはちょっといけないなと、近くの松の幹に寄りかかったのですが、それでも身体をうまく支えきることができず、地面にずるずると滑り落ちてしまいました。胸の内側で心臓が大きな音を立てていたことを覚えております。たくさんのこびとたちが遠くの丘の上にずらりと並んで、それぞれに力の限りに太鼓を打ち鳴らしているような、そんな感じのおどろおどろしい音でした。こびとたちは遠くにいましたし、その顔は陰になってよく見えません。でも彼らの腕の力はとびっきり強いらしく、太鼓の音はすぐ耳元に聞こえました。自分の心臓がそんな大きな音を立てるなんて、とても信じられないくらいです」

 子易さんはそのときのことを思い出すように、軽く目を閉じた。

「その次にわたくしの頭に浮かんだのは、どういうわけかわかりませんが、ボートに浸水してきた水を、小ぶりな手桶でせっせとかい出している光景でした。わたくしは大きな湖の真ん中で、一人で手こぎボートに乗っておるのですが、船体のどこかに穴が空いているらしく、そこから勢いよく冷たい水が入り込んでくるのです。どうして山の中で、死に際にそんなことを考えついたのか、そのへんは自分でもよくわかりません。しかし何はともあれ、わたくしとしてはこの水をかい出さなくてはなりません。そうしなければボートはほどなく水底に沈んでしまいます。それがわたくしが人生の最後に目にした光景でありました。考えてみれば不可思議なものですね。ああ、人の一生などその程度のものなのでしょうか。それからやがて無がやって参りました。まったくの無です。ええ、走馬灯なんて気の利いたものは、ちらりとも目にしませんでした。湖に辛うじて浮かんだおんぼろ手こぎボートと、ちっぽけな手桶──それだけです」

 沈黙。

「あっという間の死だったのですね?」

「はい、ああ、実にあっけない死でありました」と子易さんは肯いて言った。「覚えておる限り、肉体的苦痛もほとんど感じなかったようです。それはあまりに出し抜けであり、また──なんと申し上げましょうか──あまりに簡単であったもので、自分が今ここで死につつある、生命を失いつつあるという認識も持ちませんでした。そのようなわけで、かくして幽霊の身になってからも、自分が死んでしまったということが事実として、実感としてもうひとつすんなり呑み込めずにいるようなわけであります」

 私は質問した。「あなたが亡くなってから、そうして……そのようなかたちに、つまり……幽霊になられるまでに、何か段階のようなものはあったのでしょうか?」

「いいえ、段階というようなものはございませんでした。気がついたときには、ああ、わたくしはもうこのような状態になっておったのです。時間的なことを申し上げれば、わたくしが死んだのが今から一年あまり前で、それからこのようなかたちをとるようになったのが、つまり実際の肉体を持たない意識という存在になりましたのが、死後一ヶ月半ばかりのことであったと記憶しております。わたくしが死んで、葬儀が行われ、遺体が焼かれ、おこつが墓に納められたそのあとで、わたくしはこうして幽霊となってこの地上に戻ってまいったわけです。その間に何があったのか、どのような段階が踏まれたのか、それはわたくしには把握できておりません」

 彼の話についていくために、時間をかけて頭の中を整理しなくてはならなかった。整理するも何も基本的には、相手が語ることをそのまま事実として受け入れるしかなかったのだが。

 私は尋ねた。「この世に何か心残りがあるから戻ってきた、というようなことではないのですね?」

「はい、幽霊とはそのようなものだと一般的には思われているようですが、わたくしの場合、この世に心残りやら悔いみたいなものはとくにございません。振り返ってみますに、まあたいした出来のものではありませんが、山も谷もある人並みの一生だったと思っております」

「ただ、ご自分でもよくわからないうちに死後、その、意識がこの世に戻ってきたと」

「はい、そのとおりです。このような存在になったのは、自ら望んだことではありません。ただこの図書館につきましては、個人的な思い入れというか、それなりの愛着がありましたので、それが何かしら関係しているのかもしれません。といっても、この図書館に関して何かやり残したことがある、というようなことでは決してないのですが」

「いずれにせよ、この町の人々はみんな、もう子易さんは死んでいなくなったものと考えているわけですね」

「そのとおりです。というか、考えるも何も、わたくしはもう現実に死んでいなくなっております。そしてわたくしのこの仮初めの姿かたちは、特別な人の目にしか映らないのです」

 私は尋ねた。「添田さんは、あなたがこの図書館に現れることをご存じのようですね」

「はい、添田さんは、わたくしが幽霊となっていることを基本的に承知しておられます。わたくしと添田さんとは長きにわたるつきあいで、ある意味深いところでお互いを理解し合っておりますし、彼女もわたくしが幽霊となったことを、いわば自然の現象として、問わず語らずそのまま受け入れてくれております。むろん最初のうちは少なからず驚かれたようでしたが」

「でも他のパートの女性たちには、あなたの姿は見えないのですね?」

「はい、この姿が見えるのは、あなたの他には添田さん一人だけです。いつもいつも見えるというのではありませんが、必要に応じて彼女にはわたくしの姿が見えます。他の人たちはみんな、わたくしはもう死んでいなくなったものと思っています。まあ、実際には死んでいなくなっているわけですが……。ですから他の人がいる前では、添田さんともあなたとも会話を交わすことは控えております。そんなところを誰かに見られたりしたら、それはずいぶん奇妙な光景に映ることでしょうから」

 子易さんはそう言って、おかしそうに小さく笑った。私は言った。

「つまり子易さんは亡くなった後も、そのままここに留まり、従来通り図書館長の職を務めてこられた?」

「はい、添田さんから、何か実務上の問題について相談されれば、その度に適切と思える助言を与えたり、判断を下したりして参りました。ええ、そうです、生前ここの図書館長を務めていたときとおおむね同じようにです」

「しかしいくらなんでも、死者が幽霊となって実質的な図書館長を務めていると、世間に公言するわけにはいかないし、いろいろな局面で、日々の実務をこなす責任者がどうしても必要になってくる。それで新たな図書館長を──つまり生身の肉体をそなえた適当な人材を──外部から募集することにした。そういうことなのでしょうか?」

 子易さんは私の言ったことに対して、何度かこっくりと肯いた。自分が語ろうとしていたことを、適切な言葉にしてくれてありがたいというように。

「はい、有り体に申し上げまして、要するにそういうことです。しかしあなたが面接にこちらに見えたとき、その姿を一目拝見して、わたくしにはすぐさまわかったのです。ああ、そうだ、この人はなにしろ特別な人だ。この人はおそらくわたくしの存在を、仮初めの身体を伴った意識としてのわたくしのありようを十全に理解し、そのまま受け止めてくださるに違いないと。それはなんと申しますか、思いもかけぬ奇跡的なかいこうでありました」

 子易さんはストーブの前でその小さな身体を温めながら、賢い猫のようにまっすぐ私の顔を見ていた。その小さな目ががんの奥できらりと一瞬光った。

「しかしわたくしは用心に用心を重ね、当座はあなたの言動を慎重に観察しておりました。本当のことを打ち明けていいものかどうか、わたくしなりに逡巡しておったのです。これは人の生き死にを巡る、とても微妙な問題でありますから。おわかりいただけると思いますが、実は自分は幽霊なのだなんて、そう簡単に言い出せるものではありません。然るべき時間の経過が必要でありました。そのようにして夏が終わり、短い山あいの秋が通り過ぎ、こうして厳しい冬がやってきて、この部屋のストーブに火を入れる季節となり、そしてようやく心の底から確信できたのです。あなたはわたくしにとっての、真に正しい受け入れ先であるのだと」

 私は口を閉ざしたまま、穏やかな表情を浮かべた子易さんの顔を見つめていた。その仮初めの身体を伴った意識としての子易さんの顔を。

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