街とその不確かな壁

村上春樹



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 子易さんはストーブの前で背中を丸め目を閉じ、長い時間、深く考え込むように沈黙を守っていた。そのあいだ身体は微動だにしなかった。

「あなたは影を失った経験をお持ちの方だ」、彼はやがて沈黙を破ってそう言った。そして背筋を伸ばし、目を開けて私の顔を見た。

「どうしてそれがおわかりになるのですか? 私が一度は影を失ったことのある人間だということが」

 子易さんは二度ばかり首を振った。「わたくしは幽霊です。生命を持たぬ意識です。でありますから、普通の人には見えないものが見えますし、普通の人には理解できないことが理解できます。あなたが一度は影を失ったことのある人だということは、一目で見て取れました」

「人がその影を失うというのは、いったい何を意味するのでしょう?」

 子易さんは眩しいものを見据えるときのように、両目をぎゅっと細めた。

「ああ、あなたにはそれがおわかりになっておられないのですね?」

「ええ、それがどういうことなのか私にはよくわかっていません。そのときもわからなかったし、今でもわかりません。ものごとの流れのままに、逆らうことなく流されていっただけです。その過程において、それが何を意味するのか定かには判別できないまま、自分の影と一時期離ればなれになりました。そこに住む人々が誰ひとり影を持たない街で」

 子易さんは何も言わず、ただ顎を撫で続けていた。それからおもむろに口を開いた。

「先ほども申し上げましたが、このように死者の身になりましても、わたくしには理解できないものごとが数多くあります。はい、生きていたときと同じようにです。残念ながらと申しますか、人は死んだからそれだけで賢くなれるというわけではありません。ですからあなたのご質問にここできっぱりお答えすることは、残念ながらできそうにありません。この世界にはまた、簡単に説明してはならないこともあるのです」

 子易さんは左の手首を持ち上げ、そこにはめた針のない腕時計にちらりと目をやった。顔つきからするに、たとえ文字盤に針はなくても、それは子易さんにとって不足なく時計の役を果たしているらしかった。あるいはただ生きていたとき身についた習慣を引き継いでいるだけなのかもしれないが。

「わたくしはそろそろ失礼しなくてはなりません」と子易さんは言った。「長い時間この仮初めの姿かたちを維持することはできないのです。昼間よりは夜更けの方が、より長く地上に留まっておられますが、このあたりが限度です。そろそろ消えなくてはならぬ頃合いとなってきました。またお会いして語り合いましょう。ああ、もちろんあなたがそれをお望みになればということですが。もしご迷惑になるようであれば、わたくしはもう二度とあなたの前に姿を見せないようにいたしますが」

「いいえ」、私はあわてて言った。その言葉を強調するように何度か首を横に振った。「いいえ、迷惑なんかではまったくありません。是非また子易さんにお会いできればと思います。お話ししたいことも多くあります。どうすれば最も良いかたちでお目にかかれるのでしょう?」

「残念ながら、いつでも好きなときにこの姿をとってあなたの前に現れることができる、というわけではありません。その機会は限られております。またその時間も決して長いものではありません。ですから、いついつあなたにお目にかかれるか、それは自分でもわからんのです。わたくしが自由意志で『さあ、今から姿かたちをとろう』と決めることではありませんから。もしよろしければ、ああ、また今日と同じようにあなたのおたくに電話をおかけします。そしてこの部屋で、このストーブの前でお会いすることにしましょう。おそらくは夜間のこととなるでしょうが。先ほども申し上げたように、周りが暗くなってからの方がわたくしの形象化の負担は比較的軽くなるのです。それでよろしいでしょうか? 勝手なことを申すようですが」

「けっこうです。何時でもかまいません。電話をください。ここにうかがうようにします」

 子易さんはしばらく考え事をしていたが、ふと思いついたように顔を上げて言った。「ところで、あなたは聖書をお読みになりますか?」

「聖書? キリスト教の聖書のことですか?」

「はい、バイブルのことです」

「いいえ、きちんと読んだことはありません。私はキリスト教徒ではありませんので」

「ああ、わたくしもキリスト教徒ではありませんが、信仰とは関係なく聖書を読むのは好きです。若い頃から暇があれば手に取ってあちらこちらと読んでおりまして、いつしかそれが習慣のようになりました。示唆に富んだ読み物であり、そこから学んだり感じたりするところが多々ありました。その『詩編』の中にこんな言葉が出てきます。『人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない』」

 子易さんはそこで言葉を切り、とっを引いてストーブの扉を開け、火箸を使って薪のかたちを整えた。そしてその言葉をゆっくりと繰り返した。自分自身に言い聞かせるみたいに。

「『人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない』。ああ、おわかりになりますか? 人間なんてものは吐く息のように儚い存在であり、その人間が生きる日々の営みなど、移ろう影法師のごときものに過ぎんのです。ああ、わたくしは昔からこの言葉に心惹かれておりましたが、その意味が心底理解できたのは死んだあと、このような身になってからでありました。はい、わたくしたち人間はただの息のような存在に過ぎんのです。そしてこうして死んでしまったわたくしにはもう影法師さえついていないのです」

 私は何も言わず、子易さんの顔を見ていた。

「あなたはまだそうして生きておられる」と子易さんは言った。「ですから、どうか命を大事になさってください。あなたにはまだ黒い影法師がついているのだから」

 子易さんは立ち上がり、くったりとしたベレー帽をとって頭にかぶった。そしてマフラーを首に巻いた。

「さあ、もうわたくしは行かねばなりません。この姿を消さねばなりません。それではまたきんきんにお会いしましょう」

 私は思い切って彼の背中に声をかけた。

「子易さん、実を言いますと、私はすべての住民が影を持たないその土地にあっても、今と同じようにやはり図書館の仕事をしていました。これとそっくり同じ薪ストーブのある小さな図書館でした」

 子易さんはちらりと後ろを振り向き、ちゃんと聞こえたというしるしに一度だけこっくりと肯いた。しかしとくに意見は述べなかった。ただ黙って一度肯いただけだ。そして階段を上って部屋を出て、後ろ手にそっと扉を閉めた。

 そのあと廊下を行く足音が聞こえたような気がしたが、それはあるいは気のせいだったかもしれない。本当は何も聞こえなかったのかもしれない。もし聞こえたとしても、それはきわめてささやかな足音だったはずだ。


 子易さんがいなくなったあと、しばらく私はその半地下の部屋で一人きりの時間を過ごした。子易さんがいなくなってしまうと、ついさっきまで彼がそこにいたこと自体がまぼろしだったのではないかという強い疑念に襲われた。私はずっと一人でここにいて、ただあてもない妄想に耽っていただけではないのかと。しかしそれは幻想でも妄想でもなかった。その証拠には、机の上には二客の紅茶茶碗が空になって残っていたからだ。ひとつは私が飲んだものであり、ひとつは子易さんが──あるいは彼の幽霊が(あるいは仮初めの身体を持った彼の意識が)──飲んだものだ。

 私はため息をつき、机の上に両手を置いて目を閉じ、時間の過ぎゆく音に耳を澄ませた。しかしもちろんそんな音は聞こえなかった。聞こえるのはストーブの中の薪が崩れる音だけだった。

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