街とその不確かな壁

村上春樹



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「あまりにも唐突な、突然の出来事でした」と添田さんは言った。「子易さんはいつもお元気そうに見えましたし、七十五歳になっておられましたが、体調の不調を訴えられたこともありません。たしかに多少肥満気味ではありましたが、食生活にも気をつけられ、定期的に郡山の病院でメディカル・チェックを受けておられました。また足腰を鍛えるために近所の山をよく散策されておられました。ですから子易さんがそんな散策の途中に心臓発作を起こして急逝されるなんて、にわかには信じがたいことでした。その知らせを聞いて多くの人が驚きましたし、私もまたショックを受けました。なんだか建物の太い柱があっさり取り払われてしまったような、そんな虚脱感に襲われました。

 私は人間的に子易さんのことが好きでしたし、また尊敬もしておりました。一人きりで孤独に生活しておられることを私なりに案じてもいました。余計なお世話かもしれませんが、子易さんはもう一度家庭を持つべきだと感じていたのです。というか、子易さんは安らかで温かい家庭を持つべき方だったのです。親密な家族に囲まれて、心優しく生活なさるべき方だったのです。人間的にも社会的にも、それに相応しい資格を持っておられましたし。ですから私は、彼がそのように一人きりで人生を終えてしまわれたことを、悲しく思いました。結局のところ子易さんは奥さんとお子さんを亡くされた衝撃から、最後まで立ち直ることができなかったのだと思います。人目にはつかなくとも、常にその重荷を胸に抱えて生きてこられたのです。

 またそれと同時に、子易さんを失った図書館がこれからどうなるのかということについても、憂慮せずにはおられませんでした。もちろん自分が職を失うかもしれないことも、私個人にとって大きな問題になります。しかしそれにも増して、この魅力的な小さな図書館が、相応しくない人の手に委ねられ、好ましくない方向に変質していくかもしれない、あるいは熱意を欠いた人の指揮の下で今ある活発な生気を失い、空しく荒廃していくのかもしれない。そう考えるとつらくてたまらなかったのです。私についていえば、たとえ図書館での職を失ったとしても、夫の給与でそれなりに生活していくことはできます。しかしこの素敵な図書館が今あるようなものでなくなってしまうかもしれないと思うと、耐えられません。

 子易さんの葬儀が終わり、遺骨が町のお寺の墓地に納められ、しばらくしてからのことです。図書館の行く末について、先ほど申し上げたようなことを一人であれこれ案じているとき、ある夜私は子易さんの出てくる夢を見ました。長くてはっきりとした夢でした。目が覚めてからも、夢だとは思えないほどでした。あるいはそれは実際に夢ではなかったのかもしれません。しかしそのときは、きわめて鮮やかな夢だとしか思えませんでした。

 その夢の中で、子易さんはいつもの身なりをしておられました。例の紺のベレー帽に、チェックの巻きスカートです。そして枕元に座って、私の顔をじっと覗き込んでおられました。まるで私が目覚めるのを、長い間そこで静かに待ち受けていたみたいに。

 私は何かの気配を感じてはっと目覚め、すぐ目の前に子易さんがおられることを知り、慌てて起き上がろうとしましたが、子易さんは両手を軽く挙げて押しとどめました。

『いいから、そのまま横になってらっしゃい』と子易さんは優しい声で言いました。だから私はそのままそこに横になっていました。

『今日はあなたに少しばかりお話があって来たのです』と子易さんは言いました。『ご存じのように、わたくしはもう死んでしまった身ではありますが、決して怪しいものではありません。あなたがよくご存じの子易です。だから怖がったりしないように。いいですね?』

 私は黙って肯きました。死んだはずの子易さんを前にしてもべつに怖いとか、そんなことは思いませんでした。そのときは『これは夢なのだ』とじんも疑いませんでしたから」


「死んだ身でありながら、あなたの前にあえてこのように姿を見せたのは、どうしてもお伝えしなくてはならない、いくつかの大事な用件があったからです」と子易さんは申し訳なさそうに言った。「図書館に関する用件です。ですからこうしてあなたの睡眠に割り込む必要があったのです。こんな夜分、おやすみのところ、まことにしつけで申し訳なく思うのですが」

 添田さんは首を振った。「いいえ、そんなことは気になさらないでください。必要な用件であれば、いつでもご遠慮なく声をかけてください。喜んでお話をうかがいます」

「はい、あの図書館の将来のことを、あなたもいろいろ案じておられることと思います。そのお気持ちはわたくしにもよくよくわかっております。心配なさるのは当然のことです」と子易さんは言った。「でも添田さん、不安に思われることはありません。それについてはわたくしなりにいささかの手を打っております。この年齢になりますと、いつ自分がこの世からいなくなってしまうかわからないという思いは常に持っておったからです。図書館のわたくしの執務室の、デスクの一番下の抽斗に小さな金庫が入っています。三桁の暗証番号を合わせて蓋を開くようになっていますが、番号は491です。明日の朝出勤されたら、どうかその金庫を開けてください。金庫の中には土地の権利証や、遺産の処理に関する遺言状など、いくつかの大事な書類が入っております。これは弁護士の井上先生──井上先生のことはもちろんご存じですね──に連絡を取り、あなたから直接手渡してください。彼が諸事全般、適切な手続きをとってくれるはずです。

 またその他に、図書館の運営に関する指示を収めた青色の封筒が入っております。封筒の中には、わたくしの後継の図書館長を選ぶ方法を記した手紙も入っています。それを井上先生立ち会いのもと、あなたが理事会で読み上げてください。よろしいですか?」

「財団の理事会を招集し、井上先生立ち会いのもとに、青色の封筒を開封し、私が読み上げればよろしいわけですね?」

「はい、そのとおりです」と子易さんは言った。そしてこっくりと肯いた。「理事全員が集まり、弁護士立ち会いのもと、あなたが指示書を読み上げる、それが要点になります」

「承知いたしました。お言いつけ通りにいたします。金庫の暗証番号は491でしたね」

「はい、それで間違いありません。今日あなたにお伝えする用件はそれだけです。こんな夜中にお邪魔して、まことに心苦しいのですが、わたくしにとっては重要な用件であったもので」

「いいえ、そんなことはおっしゃらないでください。私としてはたとえどのようなかたちであれ、子易さんにまたお会いできて、お話ができて何よりでした」

「はい、わたくしはまた必要に応じて、あなたの前に姿を見せることになると思います」と子易さんは言った。「これから先は、このようにあなたのお休みになっている夢の中に現れるのではなく、現実の生活の中で、昼日中、面と向かってお話しすることになると思います。つまり、なんと申しましょうか、幽霊のようなものとしてです。そしてそのようなとき、わたくしの姿はあなたの目にしか見えませんし、わたくしの声はあなたの耳にしか聞こえません。わたくしのそういう現れ方は、添田さん、あなたにとって居心地が悪かったり、気味が悪かったりするものでしょうか? もしそのようであれば、また別の方法を考えますが」

「いいえ、それでけっこうです。いつでもお好きなときに姿を見せてください。気味が悪いとか、そんな風に思ったりはしません。むしろ逆に子易さんからそうして指示をいただけるのは、私にとって、そしてまた図書館にとって何よりありがたいことです」

「はい、ありがとうございます。そう言っていただけると、安心できます。そして、ああ、言うまでもないことでしょうが、このことは他言無用に願います。死んだはずのわたくしがこうして姿を現すというのは今のところ、わたくしと添田さんとのあいだだけの内緒のことにしておいてください」

「わかりました。決して誰かに話したりはしません」

 そして夢の中の子易さんは姿を消した。添田さんはそのまま眠ることができず、布団の中でまんじりともせず、子易さんの語ったことを何度も復唱しながら、夜が明けていくのを待った。


 私は添田さんに尋ねた。

「それからあなたはこの館長室に入って、デスクの抽斗をあらためられたわけですね?」

「はい、翌朝一番、ここに来て金庫を開きました」

 私はデスクの抽斗を開け、そこに黒い金庫が入っていることを確かめた。蓋はロックされておらず、中には何も入っていなかった。

「教えていただいた暗証番号で、金庫の蓋は開きましたし、金庫の中には言われたとおりのものがすべて収められていました。ええ、そうです、それは夢なんかではなかったのです。子易さんは本当にこの世界に戻ってこられたのです。ご自分が亡くなってしまってからも、図書館が円滑に運営されるようにしておくことが、子易さんにとっての差し迫った大事な使命であったのです。それが幽霊だったとしても、ちっとも怖くなんかありません。どのようなかたちであれ子易さんにお会いできたのはなにより嬉しいことでしたし、それによってこの素敵な図書館の秩序が今までどおりに保たれるのだとしたら、ただ感謝の念あるのみです」

「そしてあなたは理事会を招集し、子易さんののこされた指示書を、全員の前で読み上げられたのですね」

「はい、指示された通りにいたしました。理事会ではまず弁護士の先生から、子易さんが遺された財産の配分についての説明がありました。遺言状によれば、子易さん個人名義の現金、株式、不動産、生命保険などすべてが財団に寄付されることになっていました。そして財団が図書館を運営します。つまり子易さん個人を失ったことは、私たちにとって計り知れぬ喪失ではありますが、図書館運営にとっては大きな財政的寄与となったわけです。

 それに続いて理事会あての書簡が理事全員の前で読み上げられたのですが、内容は主に今後の図書館運営に関する具体的な指示でした。細かい個別的な指示が箇条書きに列挙されていました。図書館長職に関しては、自分がいなくなったあと、新聞広告を出して外部から一般公募することと記されていました。そしてその人選については私、つまり添田に一任するとありました。

 私はそれを声に出して読み上げながら、驚いてしまいました。どうして一介の司書に過ぎない私に、そのような重大な任務が一任されたりするのだろうと。理事のみなさんもきっと驚かれたと思うのですが、明確にそのように書簡に記されていますから、従わないわけにはいきません。もちろん私が選んだ人物を理事会が承認するという段取りを踏むことになっていますが、いちおう形式だけのことです」

「あなたは子易さんの指示通り図書館長を募集する新聞広告を出し、それに私が応募し、あなたが選考をおこなって、その結果私が採用された。そういうことですね?」

「はい、そうです。というか、いちおう表向きはそうなっております。しかし実際には、正確に申し上げればそうではありません。全国から数多くあった応募の中から、あなたを選ばれたのは、実は子易さんだったのです。彼があなたを指名し、私がその結果を──あくまで私が選考したというかたちで──理事会に報告いたしました。死者が後任の館長を選んだというわけには参りませんから、生きている私がその役をかたちばかり代行したわけです。腹話術師に言われるがまま口を動かす人形のように。そして理事会の形式的な承認を得て、あなたが図書館長に就任されることになりました。

 私の役目は、子易さんが下された決定をそのまま理事会に伝えるというだけのことでした。私は子易さんに前もって指示されたように、応募してきた人たちの履歴書とそれに添えられた手紙を集め、この館長室のデスクの上に積んでおきました。子易さんはどうやら私のいないところでそれらに目を通されたようで、その中からあなたを選び出されたのです。そしてある日私の前に姿を現し、この人を図書館長とするようにとおっしゃいました。私にはもちろんそれに反対する理由などありません。子易さんは元気で生きておられるうちから、ほどなく訪れるであろうご自分の死を予知しておられたかのようでした。自分のあとを誰が継いで図書館長になるかということを、大事に考えておられたのですね。だからこそ理事会あてのそのような指示書を、前もって怠りなく用意しておられたのでしょう」

「しかしどうして私でなくてはならなかったのだろう。この私のいったいどこが、彼の意にかなったのでしょう?」

 添田さんは首を横に振った。「それはわかりません。子易さんはあなたを選ばれた理由を、私に教えてはくださいませんでした。私はただ、この人に決めなさいと子易さんに言いつけられただけです」

「その子易さんの幽霊は、しばしばあなたの前に姿を見せたわけですか?」

 添田さんは小さく首を振った。「しばしばというほどではありません。時に応じて必要に応じて、姿を見せられただけです。彼は私の前ににこやかに現れ、二階の館長室に来るように指示なさいます。子易さんの姿は、ご本人がおっしゃったように私にしか見えません。その声は私にしか聞こえません。ですから私は何もなかったようなふりをして、周囲の人々には気取られないようにそっと階段を上り、館長室に入ります。そしてドアを閉め、二人でお話をします。生きてらしたときと同じようにです。子易さんはデスクのそちら側に座られ、私はこちら側に座ります。デスクの隅にはいつもどおりベレー帽が置かれています。そういうときには、彼がもう亡くなった人なのだとは私にはどうしても思えませんでした。子易さんを前にしていると、生と死との違いがだんだんわからなくなります」

 その気持ちは私にもよく理解できた。

 添田さんは言った。「あなたが子易さんとお会いになって、二人で親しくお話をなさっていることは、私にも薄々わかっていました。そういう気配は察せられます。しかし先ほども申し上げましたように、お会いになっているのが生きている子易さんではなく、彼の幽霊なのだとは、私の口からは言い出せません。そしてまた、生きているあなたと死んでしまった子易さんが、そのようなかたちで良好な関係を持っておられるのだとしたら、そこにはそれなりの理由があるはずです。その理由は私なんかには考えもつかないことです」

「でもあなたばかりではなく、ほかの誰かと話をしていても、なぜか子易さんが既に亡くなっているという話が出てくることはありませんでした。一度くらい、たとえば『そういえば、亡くなった子易さんが……』みたいな発言が出てきてもいいはずなのに。どうしてだろう?」

 添田さんはまた首を振った。「さあ、どうしてでしょう。そのへんのことはわかりません。あるいは目には映らない特別な力の作用がそこに働いていたのでしょうか」

 私は部屋の中を見回した。どこかに子易さんがいるのではないかと思って。あるいはまた「目には映らない特別な力の作用」がどこかに働いているのではないかと思って。しかしそこにはただ動きのない、ひやりとした午後の空気があるだけだった。

「それとも他の人たちも、薄々感じていたのかもしれませんね」と私は言った。「子易さんがまだ本当には亡くなっていないということを。たとえその姿は見えないにせよ、彼がこの図書館に存在している気配を肌に感じていたのかもしれない」

「はい、それはあるかもしれません」と添田さんは言った。ごく当たり前のことのように。

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