街とその不確かな壁

村上春樹



40



「生まれたのは男の子でした」と添田さんは言った。「その子は予定通り、子易森と名付けられました。お産は安産で、とても元気な子供でした。子易家にとっては初孫だったので、その子は誰からも愛され、大事にされて幼児時代を送りました。子易さんも、子易さんの奥さんも幸福に毎日を送っておられたということです。生活は安定し、問題らしい問題もなく、奥さんも町での生活にうまく馴染んでこられました。私はその頃はまだこの町におりませんから、当時の事情を実際には知りません。すべては後年まわりの人たちから聞かされた話です。しかし話してくれたのはみんな信用のできる確かな人たちですし、その内容にはまず間違いはないはずです。要するに不幸の影のようなものは、子易さんの周辺には一片も落ちておらず、ものごとはすべてこの上なく順調に運んでおりました」

 添田さんはそこでいったん口を閉ざし、表情を欠いた目で、スカートの膝の上に置かれた自分の両手を見つめていた。彼女の左手の薬指にはシンプルな金の指輪が光っていた。

 でもそんな幸福感に包まれた日々は長くは続かなかった、ということなのだろうか。私はそう思った。添田さんの口元にはそう言いたげな微かな震えが見て取れたからだ。

「でも、そのような幸福な日々は、長くは続きませんでした。残念なことに」と添田さんは、私の無言の考えを読み取ったかのように話を続けた。


 男の子は五月半ばに五歳の誕生日を迎え、賑やかな誕生日のお祝いがあった(ちなみにそのとき、子易さんは四十五歳、奥さんは三十五歳になっていた)。子供は誕生日のお祝いに、赤い小さな自転車を買ってもらった。本当は毛の長い大型犬が欲しかったのだが(子供は「アルプスの少女ハイジ」に出てくる犬に夢中になっていた)、母親が犬の毛のアレルギーだったので、今回は犬は我慢して、その代わりに自転車を手にすることになったのだ。でもそれはとても可愛い素敵な自転車だった。だから子供はそれで十分幸福な気持ちになった。そして幼稚園から帰宅すると、毎日自宅の庭で得意げに補助輪つきの自転車を乗り回していた。歌をうたうのが好きな子で、自転車を運転しながらいつも何かの歌をうたっていた。自分で作ったでたらめな歌をうたうこともあった。

 ある日の夕方、母親は台所で夕食の用意をしながら、窓の外から聞こえてくる子供の歌声に耳を澄ませていた。それは彼女にとって何より幸福なひとときであったはずだ──春の夕暮れ、てきぱきと家事をこなしながら、自転車を楽しげに乗り回している五歳の子供の歌声に耳を傾けていること。

 でも炒め物をしている途中で容器の塩が切れてしまい、その買い置きを探すことに気を取られ、子供の歌声が聞こえなくなったことにしばらく気がつかなかった。それに思い当たってはっとした瞬間、彼女が耳にしたのは大型車が急ブレーキをかける音だった。そして何かが弾けるような乾いた音。その一続きの音は家のすぐ前から聞こえてきたようだった。そしてそれに続く、すべての音がどこかにすっぽり吸い込まれてしまったような気味の悪い沈黙。彼女は反射的にガスの火を止め、サンダルを履いて急いで玄関を出た。そして門の外に出た。

 彼女がそこで目にしたのは、急ハンドルを切ったかっこうで道路を塞ぐように斜め向きに停車している大型トラックと、そのタイヤの前に転がっている、ぐにゃりとねじ曲がった赤い子供用の自転車だった。子供の姿は見当たらなかった。

しん!」と彼女は叫んだ。「しんちゃん!」

 しかし返事はない。トラックのドアが開いて、中年の運転手が降りてきた。男の顔は蒼白で、身体全体がぶるぶる震えていた。

 子供はそこから五メートルばかり先の道ばたまで飛ばされていた。かなりの勢いでトラックに衝突し、その身体はおそらくゴムボールのように軽々と宙を飛んだのだろう。意識を失った小さな身体は、何かの抜け殻のようにぐったりとして、恐ろしいほど軽かった。口は何か言いかけたまま果たせなかったみたいにむなしく半開きになり、瞼は閉じられたままだった。口の端からはよだれが細い筋になってこぼれ出ていた。母親は飛んでいって子供を抱き上げ、全身を素速く点検した。見たところどこからも血は流れていない。それで彼女は少しだけほっとした。少なくとも血は流れていない

「しんちゃん!」と彼女は子供に声をかけた。しかし反応はない。目を閉じたままぴくりとも動かない。両手の指もだらんと垂れたままだ。呼吸をしているかどうかもわからない。心臓が動いているかどうかもわからない。彼女は子供の口元に耳を近づけ、息づかいを感じ取ろうとした。しかしその気配はなかった。

 トラックの運転手がやって来て彼女の横に立ったが、見るからにひどく動転しており、何をすればいいのか、何を言えばいいのか判断できない様子だった。ただ震えてそこに立っているだけだ。

 彼女は子供を抱いて家の中に入り、とりあえずベッドの上に寝かせ、電話で救急車を呼んだ。彼女の声は自分でも驚くほど冷静だった。自宅の正確な住所を告げ、家の前で五歳の子供が交通事故に遭ったので、至急救急車を回してほしいと告げた。ほどなく救急車と警察の車両がサイレンを鳴らして到着し、救急車は母親と子供を病院に急送した。二人の警察官とトラックの運転手は現場検証のためにあとに残った。

 ガスの火は消したかしらと母親は救急車の中で、子供に寄り添いながら思った。記憶はなかった。何も覚えていない。でもそんなことはもうどうでもいい、と彼女は、強く何度か首を横に振った。そんなことはもうどうでもいい。しかしそれでも、ガスの火のことはどうしても彼女の脳裏を去らなかった。意識不明になった子供のそばでガスの火の始末について考え続けることは、おそらく彼女にとって必要なことだったのだろう。なんとか正気を保ち続けるために。


 男の子は病院で三日間昏睡状態にあった後に、心肺機能が停止し、静かに息を引き取った。トラックと衝突してはね飛ばされ、道路の縁石で後頭部を打ったことが死因となった。出血もなく、目に見える身体の変形もなく、どこまでも静かな死だった。何を思う暇もなく、その死は一瞬のうちにやってきたのだ。おそらく痛みを感じる余裕もなかったはずだ。慈悲深く──と言ってもいいほどに。でもそんなことは両親にとって何の慰めにもならなかった。

 トラックの運転手の証言によれば、赤い自転車に乗った子供が出し抜けに、家の門から路上に飛び出してきて、あわててブレーキを踏み、ハンドルを右に切ったのだが間に合わず、バンパーの角に衝突してしまったということだった。まちなかの比較的狭い道だったのでそれほどの速度は出しておらず、制限時速内で走行していたのだが、なにしろ急に目の前に飛び出してきたので、対応のしようがなかった。しかし本当に申し訳ないことをしてしまった。私にも小さな子供がいるので、ご両親のお気持ちは痛いほどよくわかる。どうやってお詫びすればいいか。

 警察はアスファルトの路面に残されたブレーキ痕を検証し、トラックは運転手が証言したとおり、それほどのスピードを出していなかったことが裏付けられた。運転手は過失致死容疑で書類送検されたが、彼の不注意を責めるのは気の毒だったかもしれない。子供は何らかの理由で勢いよく門から路上に飛び出してしまったのだろう。子供らしい何かの思いで頭がいっぱいになっていたか、それともまだ自転車の操作によく慣れていなかったか。家の前の道路は頻繁に車の行き来するところではなかったが、それでもやはり危ないから、自転車の運転は塀の中だけに限るように、道路には決して出ないようにと厳しく言い聞かせてはいたのだが。そして通常門は閉められ、掛けがねを掛けられていたはずなのだが。


 残された両親の悲しみは言うまでもなく、計り知れないほど深いものだった。限りなく愛情を注いでいた子供が、目の前から唐突に消え失せてしまったのだ。その生まれたばかりの健やかな命は──そこにあった温もりと笑顔と歓びに満ちた声音は──時ならぬ突風を受けた小さな炎のように一瞬にしてかき消された。彼らの絶望、喪失感はどこまでも痛切で救いのないものだった。子供の死亡を知らされた母親はショックで意識を失ってその場に倒れ込み、そのまま何日も泣き暮らした。

 子易さんの抱いている悲しみも妻のそれに劣らずに深いものだったが、同時に彼には、妻を護りきらなくてはならないという強い思いもあった。喪失の衝撃の中に深く沈み込み、生きる意欲をほとんど失ってしまっているように見える妻を、なんとかそこから救い出し、元の軌道に戻していかなくてはならない。もちろん元通りとはいかないだろうが(それが不可能であることは彼にもよくわかっていた)、少しでも平常に近い地平に、彼女をひっぱり上げていく必要がある。子供の死をいつまでもいたみ続けているわけにはいかない。なんといっても人生は長期戦なのだ。そこにどれほどの悲しみがあるにせよ、喪失と絶望が待ち受けているにせよ、一歩一歩着実に足を前に踏み出していかなくてはならない。

 子易さんは来る日も来る日も妻を慰め、励まし続けた。そばに寄り添い、思いつく限りの温かい言葉をかけた。彼は彼女のことを変わらず深く愛していたし、少しでも元気を取り戻してもらいたかった。生きるための意欲をなんとかかき集め、前のような明るい笑顔を見せてもらいたかった。

 しかし子易さんがどれほど熱心に努めても、彼女の心は暗く深い淵に沈み込んだまま浮かび上がってはこなかった。自分だけの部屋に閉じこもって厚い扉を閉め、内側から鍵をかけてしまったかのようだった。朝から晩まで誰に対してもほとんど一言も口をきかなかった。また彼が何を言っても、何を話しかけても、その言葉は堅固な殻に阻まれ、はねつけられた。身体に手を触れると、妻は身を堅く縮め、筋肉を強ばらせた。まるでどこかの見知らぬ男に不作法に手を触れられたみたいに。そのことは子易さんに深い悲しみをもたらした。彼にとってまさに二重の悲しみだった。彼はまず大切な子供を失い、それに続いて大事な妻をも失いつつあるのだ。

 妻はただ悲しみに沈み込んでいるのではなく、強いショックを受けたことで、精神に何らかの異変をきたしているのではないかと、彼は次第に不安に感じるようになった。しかしそんな事態にどう対処していけばいいのか判断がつかなかった。医師に相談するわけにもいかない。妻の抱えている問題を解決してくれるような医師が簡単に見つかるとは思えなかったからだ。それはおそらく彼女の精神のずっと深いところに生じている深刻な問題なのだ。自分がその生々しい心の傷口をなんとか癒やしていくしかない──人生の同伴者として。それ以外に打つべき手はあるまい。たとえどれほど長く時間がかかるにせよ、どれほど多大な努力を要するにせよ。


 一ヶ月ほど堅く沈黙を守り続けたあと、ある日突然、憑き物が落ちたように彼女はしゃべり始めた。そして一度しゃべり始めると止まらなくなった。

「あのとき、あの子の希望通り犬を飼ってやればよかったのよ」と彼女は抑揚を欠いた声で静かに語った。「言われた通り犬を飼ってやれば、その代わりにあの自転車を買ってやることもなかった。私が犬の毛アレルギーだから、それで犬は飼えないと言った。だからプレゼントは自転車になった。誕生日祝いの、あの赤い小さな自転車に。ねえ、あの子にはまだ自転車は早すぎたのよ。そうでしょ? 自転車は小学校に入ってからにするべきだった。そしてそのおかげで、私のおかげで、あの子は命をなくしてしまった。もし私が犬の毛アレルギーなんかじゃなかったら、あの子は事故に遭ったりしなかったし、死ぬこともなかったのよ。今でも私たちと一緒に、元気に楽しく生きていられたのよ」

 そんなことはない、と彼は言葉を尽くして言い聞かせた。なにも君が悪いんじゃない。それじゃ原因と結果を取り違えていることになる。だいたい犬が駄目なら自転車を買ってやろうと言い出したのは僕じゃないか。僕のアイデアだったんだ。いずれにせよすべては起こるべくして起こったことだ。誰のせいでもない。誰が悪いわけでもない。ただいろんなことがたまたま運悪くひとつに重なってしまったんだ。運命としかいいようがない。今さら細かいことをひとつひとつ言い立てても、なくなった命が戻ってくるわけでもない。

 しかし彼女は彼の口にすることなど、まったく聞いてはいなかった。彼の言葉は何ひとつ耳に入らないようだった。ただ自分の主張を、録音されたエンドレス・メッセージのように、きりなく繰り返すだけだ。あのときもし子供の希望通り犬を飼っていれば、自転車を買うことはなかったし、その結果子供が命を落とすこともなかったのだ……と。

 そしてまた彼女は料理の途中でうっかり切らしてしまった食塩についても、繰り返し繰り返し語り続けた。塩が切れかけていることには気づいておくべきだった。その買い置きがどこにあるかも頭に入れておくべきだった。すべては私の不注意のせいだ。塩が切れてしまったおかげで、それに気を取られ、あの子の歌声が聞こえなくなったことに気づかなかった。炒め物をしている途中で容器の塩がなくなったというだけのことで。そんなくだらないことのために、あの子の大事な命は永遠に奪われてしまった。おまけに料理途中のガスの火を消したかどうか、私にはそれさえ思い出せない。

 たとえ料理の途中で塩を切らさなかったとしても、その事故は防ぎようがなかっただろうし、ガスの火は間違いなく消されていた、と子易さんがいくら説得しても彼女は納得しなかった。子易さんが何を言おうと、彼女は犬と自転車のことを、そして食塩とガスの火のことを際限なく話し続けた。誰かに向けて語っているのではない。自分自身に向かって話しかけているのだ。それは彼女の中に生じた暗い空洞に響く、一連のうつろなこだまなのだ。そこには子易さんが介入できる余地はまったく見当たらなかった。

 すべてのものごとが悪い方向に流されつつあると子易さんは感じた。何をしてもうまくいかない。どうすればいいのか、どこから手をつければいいのか見当もつかない。途方に暮れるばかりだった。妻は同じことをいつまでも果てしなくしゃべり続け、慰めや励ましの言葉は頭から無視され、はねつけられた。そしてその身体には指一本触れさせてくれなかった。彼女の眠りは浅く、覚醒はおぼろげで不確かだった。

 時間をかけるしかあるまい、と子易さんは覚悟した。これはおそらく時間にしか解決できない問題なのだ。人の手ではどうすることもできない。しかし残念ながら、時間は子易さんの味方ではなかった。


 六月の終わり頃これまで例がないほど激しい雨が何日も続けて降った。川が急速に水かさを増し、氾濫が心配されるほどだった。町の外側を流れるいつもは穏やかで清らかな川が茶色の濁流と化し、荒々しい音を立てながら、大小の流木を次々に下流へと運んでいった。

 そんなある朝(それは日曜日だった)、子易さんが六時過ぎに目を覚ますと、隣のベッドに妻の姿はなかった。雨が大きな音を立ててのきを打っていた。子易さんは不安になって、家の中を探してまわったが、妻の姿はどこにも見当たらなかった。大きな声で妻の名前を呼んだが返事はなかった。嫌な予感がした。心臓が乾いた音を立てた。こんな激しい雨の中、朝早くから彼女が外に出て行くとは思えなかったが、家の中に見当たらない以上、外に出て行ったとしか考えられない。

 彼はレインコートを着て雨用の帽子をかぶり、外に出てみた。山から吹き下ろす風が木々の間で切り裂くような音を立てていた。庭を探し、家の周りをまわってみたが、彼女の姿は見当たらない。仕方なくもう一度家の中に戻り、彼女の帰りを待つことにした。こんな嵐のような風雨の中だ。何か事情があって、ふらっと外に出たのかもしれないが、それほど長く歩き続けているわけにもいかないだろう。やがて戻ってくるはずだ。

 しかし彼女はいつまで経っても帰宅しなかった。彼は念のために寝室に戻って、彼女の眠っていたベッドの掛け布団をめくってみた。そしてそこに長いねぎが二本、彼女のかわりに横になっているのを目にした。白くて太い立派な葱だった。たぶん妻がそこに置いたのだろう。そのことは(当然ながら)彼をひどく驚かせ、そして怯えさせた。

 どうして葱なんだ?

 そこには間違いなく、何かしら異常なもの、病的なものがあった。二本の葱をベッドの上に置くことによって、彼女はいったい何を夫に告げようとしていたのだろう(それが彼に対する何らかのメッセージであることに疑いの余地はない)。その異様な光景を見ていると、子易さんの身体は芯から冷え冷えとしてきた。

 子易さんはすぐに警察に電話をかけた。電話に出た警察官はたまたま彼の古い知り合いだった。彼はそれまでの経緯を相手に簡単に説明した。朝早く目が覚めたら、妻の姿がどこにも見えなくなっていた。行方は見当もつかない。こんなひどい風雨の中、日曜日の朝の六時前に彼女が外に出て行くような理由は何ひとつ思いつけない。ベッドに置かれた二本の長葱のことはあえて言わなかった。そんなことを話しても、相手はきっとよく理解できないだろうし、かえって混乱が増すだけだ。

「それはご心配でしょうが、子易さん、奥さんにも何かの用件があったのでしょう。きっとそのうちにふらりと戻ってこられるはずです。もうちょっと待って、様子を見てみましょう」と警官は言った。

 明白な事件性がなければ、その程度のことで警察はまず動かないのだ。子易さんはそう思って諦め、礼を言って電話を切った。夫婦喧嘩をして腹を立て、そのまま家を出て行くような妻は世間に数多くいるはずだ。そしておおかたの場合、時間が経って頭に上った血が引いてくれば、とりあえず家に戻ってくる。警察としても、そんな家庭内のトラブルにいちいち関わってはいられないのだろう。

 しかし八時を過ぎても彼女は戻ってこなかった。子易さんはもう一度レインコートを着て帽子をかぶり、雨降りの中に出た。そして時折吹く突風にあおられながらあてもなく近所を歩いてみたが、妻の姿はどこにも見当たらなかった。こんな天候の中、それも日曜日の朝に道を歩いている人なんて一人もいない。鳥の一羽も飛んではいない。すべての生き物はどこか屋根の下で息を潜め、嵐が通り過ぎるのを待っているようだった。彼は仕方なく帰宅し、居間のソファに腰掛け、五分おきに時計の針に目をやりながら、正午まで妻の帰りを待った。でも彼女は戻ってはこなかった。

 もう二度と彼女には会えないのだろうと、子易さんは思った。というか、彼にはそれがわかったのだ。彼の本能がはっきりとそう告げていた。彼女はもう彼の手の届かないところに行ってしまったのだ。おそらくは永遠に。


「子易さんの奥さんの遺体が、川の増水ぶりを点検に来た消防団員によって発見されたのは、その日の午後二時ごろのことでした」と添田さんは言った。「川に身を投げたらしく、自宅のあるあたりから二キロほど下流に流され、橋脚に絡まった流木にひっかかって止まっていました。足がナイロンのロープで縛られていました。きっと身を投げる前に、自ら縛ったのでしょうね。流される途中であちこちにぶっつけられたようで、身体は傷だらけになっていました。また解剖の結果、睡眠薬が胃から検出されましたが、命にかかわるほどの量ではありません。医師が処方したマイルドな種類の睡眠薬です。でも彼女はまず手に入る限りの睡眠薬を集めて飲み、それから自分で自分の足を縛り、自宅近くの橋から川に身を投げたのでしょう。死因は溺死で、警察は後日それを自殺と断定しました。子供の事故死以来、彼女が精神的に深く落ち込んで、深刻な鬱状態におちいっていたことは周知の事実でしたから、自殺であることに疑問の余地はまずありませんでした」

「彼女が身を投げた川というのは、うちの前を流れるあの川のことですね?」

「そうです。ご存じの通り普段は水かさの少ない穏やかで美しい川です。しかしいったん大雨が降ると、周りの山々から水が一気に流れ込んで、短時間のうちに激しく増水し、きわめて危険な流れに姿を変えます。天使が一瞬にして悪魔に変貌するみたいに……。時には小さな子供が流されたりもします。それがどれくらい危険な流れになるか、実際に現場を目にしてみないと、なかなか想像がつかないのですが」

 たしかに私にはその荒々しい姿が想像できなかった。普段は平和な見かけの静かで美しい川なのだ。

「町の人たちはみんな子易さんに心から同情しました」と添田さんは続けた。「仲の良いご一家で、本当に幸せそうに見えましたから。いいえ、見えたというだけではなく、実際に幸福そのものだったのです。美しい若い奥さんと、可愛い健康な男の子、そしておうちは裕福でした。そこには陰りひとつありません。でもそんな輝かしい理想の家庭が、瞬く間に崩れ落ちてしまったのです。子易さんはまず男の子を失い、その僅か一ヶ月半の後に奥さんまでをも失いました。どちらも彼のせいではありません。いいえ、誰のせいでもありません。情けを知らない運命がその二人を彼の元から奪い取り、連れ去ったのです。そして子易さん一人があとに残されました」

 そこで添田さんは話をいったん中断し、しばらく沈黙を守っていた。

「それは今から何年前のことなのですか」と私は少し後でその沈黙を破るために質問した。「その男の子と奥さんが亡くなったのは?」

「今から三十年前のことです。そのとき子易さんは四十五歳でした。そしてそれ以来亡くなるまで、ずっと独身をまもってこられました。再婚の話はもちろんいくつも持ち込まれたのですが、どんな話も一貫して断り続け、一人でひっそり暮らしてこられました。お手伝いを置くこともなく、すべての家事を自分でなさっていたようです。家業の酒造会社の経営は不備がない程度に無難にこなしておられましたが、熱意というほどのものは見受けられませんでした。これまで続いてきた流れを損なわないように、穏やかに全体に目を配っておられたという程度のものです。世間との交際もできるかぎり避け、自宅の近辺にある会社への行き帰りを別にすれば、外出なさることもほとんどありませんでした。亡くなった二人の月命日には欠かさずお墓参りをなさっていたようですが、それ以外に町の人たちが彼の姿を見かけることはまずありませんでした。どれだけ長い歳月が経過しても、お子さんと奥様の死の衝撃から立ち直ることはできなかったのです」


 長く病床に就いていた父親がやがて亡くなり、子易さんは一家が経営してきた酒造会社を、かねてから熱心に買収を申し出ていた大手企業に売却することにした。名前が全国的に知られても大量生産に走らず、四代にわたって質の高い清酒を堅実に製造してきた会社だったので、ブランドの価値は高く、かなりの高額で名称と施設一式を売却することができた。古くからの従業員たちには手厚い退職金を払い、一族の人々にもそれぞれの持ち株に応じて、売却金を公正に分配した。子易さんはみんなに信用され、好意を持たれていたので(そしてまた彼の性格が会社経営に適しているとはいえないことを、誰もが承知していたので)、その取引に異議を唱える者はいなかった。子易さんの手に残されたのは売却金の残りと、ずいぶん前から使われなくなっていた古い醸造所と、実家だけだった。


「もともと意には染まなかった家業からようやく解放され、晴れて自由の身になったあと、子易さんは隠居に近い生活を送られるようになりました」と添田さんは続けた。「まだそれほどのお歳ではなかったのですが、一人でひっそり自宅に籠もって静かに暮らしておられました。猫を何匹か飼い、もっぱら本を読んで日々を過ごしておられたようでした。それから運動のためなのでしょう、よく山を散歩なさっていたようです。世間との接触は相変わらずきわめて限定されたものでした。町の通りでたまたま知り合いの誰かに会えば、いちおうにこやかに挨拶はされますが、あえてそれ以上の交際は求めないという風でした。そしてやがて少しずつではありますが、奇行のようなものが目につくようになってきました」

 奇行という言葉に驚いて、私は反射的に眉を寄せた。

「奇行というのは、ちょっと表現が強すぎるかもしれませんね」と彼女はそれを見て、思い直したようにつけ加えた。「これが都会であればおそらく『少し風変わり』くらいで済んだことでしょう。しかしなにしろこのような保守的な、狭い町のことですから、それは人々の目にはほとんど奇行として映ったのです。彼はまず例のベレー帽をかぶり始めました。姪御さんがフランス旅行した際に、お土産として買ってこられたものです。買ってきてほしいと子易さん自身が頼まれたということです。そしてそれ以来彼は、一歩でも家の外に出るときには、必ずその帽子をかぶるようになりました。もちろんそれ自体は奇行というのではありませんが、しかし、うーん、どのように言えばいいのでしょう、子易さんがそのベレー帽をかぶると、そこには何かしら、うまく説明のつかない普通ではない雰囲気が生まれました。だいたいこの町にはベレー帽をかぶるような洒落た人はまずおりません。だからその格好は相当に目立つのですが、ただ単に目立つというだけじゃありません。その周囲には、あえて言うなればどこか異質な空気が生じたのです。その帽子をかぶることによって、子易さんが子易さんではなくなっていくような、なんだかそのまま違う存在に変わっていくような……ずいぶん奇抜な表現みたいですが、わかっていただけますか?」

 私はあえてその質問には答えなかった。どうだろうというように、曖昧に少し首を傾げただけだ。でも彼女の言わんとすることは、漠然とではあるが理解できるような気がした。

 はっきり言って、子易さんのような顔かたちの人にはベレー帽はあまり似合わない。ときには、子易さんがベレー帽をかぶっているのではなく、逆にベレー帽が子易さんを身につけているみたいに見えてしまうこともある。しかし子易さんはそんなことをちっとも気にしていないようだった。というかむしろ、彼はそうなることを歓迎しているみたいにも見えた──自分というものがそっくり消えて、ベレー帽があとに残ることを望んでいるみたいにも。

「それに加えてやがて極めつけと申しますか、スカートが登場しました。ある日を境に(そこにどのような契機があったのかは不明ですが)、子易さんはズボンではなく、スカートをはくようになったのです。というか、スカートしかはかなくなったのです。これには人々はすっかり仰天してしまいました。もちろん男性がスカートをはいてはいけないという規則はどこにもありませんし、それはあくまで個人の自由です。ご存じのように、スコットランドでは実際に男性がスカートをはいています。英国皇太子だって場合によってはおはきになります。男性がスカートをはくことによって、誰かが傷つけられるわけでもありませんし、具体的に不便をこうむるわけでもありません。それをやめさせるような根拠もありません。しかしこの小さな町にあっては、子易さんが──まさに町の名士ともいうべき、六十の峠を越した地位もあり理性もある男性が──スカートをはいて堂々と町を歩き回るというのは、まさに驚天動地の出来事でした。

 彼がなぜスカートをはかなくてはならないのか、人々にはその理由がわかりませんでした。子易さんは正気を失い始めたのではないかと、みんなは陰で噂をしました。あるいは頭のネジが少しばかり緩んできたのではないかと。でも子易さんに、あなたはどうしてズボンではなくスカートをはいて町を歩き回ったりするのですかと、面と向かってその理由を尋ねるような人はいません。なんといっても子易さんは名のある資産家でしたし、多くの面で経済的に町に貢献してもいました。教養もあり、円満穏やかな人柄のゆえに人望もありました。そんな人物に向かって、直接しつけな質問をするわけにはいきません。だから人々は困ってしまい、ただ首を捻るばかりでした。いったい子易さんはどうなってしまったのだろうと。

 もちろん愛するお子さんと奥様を前後して亡くされたことが、そのときに受けた深い心の傷が、子易さんのいわゆる『奇行』のおおもとの原因になっているであろうことは、誰にも容易に想像がつきました。それ以前はごく普通の身なりで、当たり前に生活なさっていたのですから。でも不思議なことにと申しますか、ベレー帽にスカートという、一風変わった格好をするようになってからの子易さんは、それ以前とは打って変わって、ずいぶん明るい性格になられたようでした。まるで長く閉めきられていた窓が大きく開かれ、暗いじめじめした部屋に春の陽光がふんだんに差し込んだみたいにです。

 家を出て、積極的にまちなかを散策し、そこで出会う人々と進んで話をするようになりました。一人でひっそり家に閉じこもって本ばかり読んでいる生活は、どうやらもう終わりを告げたようでした。町の多くの人々はそのような彼の急激な変化を歓迎しました。その様子を見てほっとし、喜ばしく思いました。そのように性格が明るくなり、より外交的になり、まわりの人々と親しく会話ができるのなら、多少奇妙な格好をしたところでべつにかまわないじゃないか、それがとくに何かの害になるわけでもないし、と。愛するものを続けざまに失った深い悲しみも、時が経過するにつれてさすがに薄らいできたのだろうと人々は考えました。そのことは人々にとっての朗報でした。結局のところ、みんなはそのように思いたかったのです。歳月が多くの問題を解決してくれるのだと──実際にはそうではなかったのですが。

 そのようにして町の人々は子易さんの『奇行』を、いくぶん常識からいつだつしてはいるものの、思想信条の自由として許されている範囲内での個人的行為、行動スタイル、いうなれば『無害な気まぐれ』として受け入れるようになりました。あるいは見て見ないふりをするようになりました。道ですれ違っても、その身なりをじろじろ眺めたりすることがないように──同時にまた目を逸らしたりもしないように──注意し、小さな子供たちが彼を指さして、その格好の奇矯さを大声で指摘したり、あとをついていこうとしたりするのを、叱ってやめさせました。

 しかし子供たちは、彼の姿に抗しがたく惹きつけられるようでした。子易さんはただ普通に道を歩いているだけで、まるで昔話のパイドパイパーのように、小さな子供たちを魅了しました。そして子易さん自身も、そのことを楽しんでいるようでもありました。子供たちが放心したような顔であとをついてきても、彼はただにこにこしているだけでした。おそらくは事故で亡くされた自分のお子さんのことも思い出されていたのでしょう。かといってついてくる子供たちに声をかけたり、一緒に遊んだりするようなことはありません」

「パイドパイパーは最後には子供たちを全員、町から奪い去ってしまう。そうでしたね?」

「そうです」と添田さんは口元にうっすらと微笑を浮かべて言った。「ハーメルンの町民たちは、笛吹き男に鼠退治を頼んでおきながら、鼠が駆逐されても、約束したとおりの報酬を支払わなかったので、彼はその代償に魔法の笛の音を用いて、町の子供たち全員を集め、深い洞窟の中に連れ去ってしまいます。あとに残されたのは、脚が不自由なために行進についていけなかった男の子一人だけでした。そのようにして笛吹き男は、最終的には不吉な魔術的存在となります。でも、言うまでもないことですが、子易さんには誰かに害をなすようなつもりもなく、そんな気配もありません。子易さんはただ自分の感覚に、感ずるところに、正直に率直に従っておられただけなのです。そこには他意も目的もありません。自分の姿が誰にあきれられようと、あざけられようと、あるいは誰がそれに魅了されたとしても、そんなことはどうでもよかったのです。

 そのように身なりが変わってくるのと同時に、子易さんの体つきも急速に変化を遂げていきました。もともとはすらりと瘦せた体形の方だったのですが(少なくともそういう話です。私が初めてお会いしたときは、既にもう瘦せてはおられませんでした)、紺色のベレー帽をかぶり、顎髭をたくわえ、スカートをはくようになってから、あっという間に肉付きが良くなり、肥満体型になってきました。丸々としてこられたのです。まるで身なりを一変することを機会に、別の人格に乗り換えられたかのように」

「というか、本当に別の人格になってしまいたかったのかもしれませんね」と私は言った。「これまでの人生と決別するために、そしてつらい思い出を忘れるために」

 添田さんは肯いた。「ええ、あるいはそうなのかもしれません。実際に子易さんはほどなく、新しい人生に足を踏み入れられました。六十五歳になられたとき、所有しておられた、もう使われていない古い醸造所を、図書館として活用するために町に寄付されたのです。それが今から十年ばかり前のことでした。そしてちょうどその時期に、私は縁あってこの町に越してきたのです。

 町が運営していた公共図書館の建物が老朽化し、以前から何かと問題になっていたのですが、町には建物を補修するだけの財政的余裕がありませんでした。子易さんはそのことに心を痛め、私財を投じて古い醸造所を大々的に改修し、図書館に作り替えることになさいました。そしてお手持ちの大量の蔵書もそこに寄贈することにしました。醸造所は古い建物でしたが、太い柱と梁を使った頑丈な造りの木造建築でしたので、構造上の問題はありません。改修にはそれなりの費用が必要とされましたが、子易さんはほとんど単独でその費用をまかなわれました。そこで図書館員として働く人々の──私もその一人なのですが──給与も主に、子易さんが設立された財団の資金でまかなわれています。ご存じのように、さして高い給与ではありませんし、半ばボランティアのような性格のものではありますが、それでも年間を通して少なくはない額の運営資金が必要とされます。新しい書籍も購入しなくてはなりませんし、光熱費だって馬鹿になりません。町からの補助もいくらかあるものの、たいした額ではありません。

 ですから、この図書館は実質的には子易さんの個人図書館のようなものなのですが、彼はそのように見られることを嫌い、『Z**町図書館』という看板を掲げ続けられました。建前としてはこの図書館は、町民有志が参加する理事会によって運営されていることになっていますが、それはあくまで形だけのものです。理事会は年に二度招集されますが、そこで報告された収支決算は質問も討議もなく、そのまま機械的に承認されます。すべてを決定するのは子易さんで、誰かがそれに異議を唱えるようなことはありません。なにしろ子易さんの援助と采配なしには成り立たない図書館でしたから。

 子易さんが私費を投じてこの図書館を設立されたのは、まず第一に、自分が理想として思い描く図書館を所有し、運営することが、昔からのひそかな夢だったからです。居心地の良い特別な場所をこしらえ、数多くの本を集め、たくさんの人々に自由に手に取って読んでもらうこと、それが子易さんにとっての理想の小世界でした。いや、小宇宙と言うべきなのでしょうか。まだ若い頃、自らが小説家になることに熱意を抱いておられた時期もありましたが、その望みにある時点で見切りをつけてからは、また奥さんとお子さんを亡くされてからは、それが彼の人生にとっての唯一の切望となったようでした。

 そして子易さんにはもう財産を引き渡すべき肉親もいません。妻もなく子もなく、また母親も父親のあとを追うように亡くなっていましたし、身内でただ一人残った妹さんも、それなりのおうちに嫁いで東京で暮らしておられ、会社の売却益も受け取ったので、それ以上の財産相続は望まないということでした。また子易さん自身は贅沢な暮らしをすることにまるで興味がなく、驚くほど質素な生活を送っておられました。会社を売却したお金をほとんどそのまま投じて財団を設立し、その資金で図書館を新装され、当然のこととして図書館長に就任されました。言うなれば積年の夢をかなえられ、ご自分の小宇宙を起ち上げられたのです。

 そしてそれからの十年間、子易さんは図書館長としてその小宇宙と共に歳月を送ってこられたわけですが、彼のその時期の人生がどれだけ満ち足りたものであったか、どれほど平穏なものであったか、私たちには知りようもありません。子易さんは常ににこやかに穏やかに、まわりの私たちに接しておられましたが、実際のところその胸の内にどんな思いを抱えておられたのか、それは知りようのないことでした。

 もちろん子易さんはこの図書館を愛しておられましたし、それが彼の生きがいになっていたことに間違いはありません。子易さんはこの図書館にいることに喜びを覚えておられました。それは確かです。しかしそれで心が満ち足りていたかというと、そうではなかっただろうと思わないわけにはいきません。子易さんの心には深い空洞がぽっかりと空いているように思えてなりませんでした。何ものにもその空洞を満たすことはできません」

 添田さんはそこで口をつぐんで、何かを考え込んでいた。

 私は質問した。「添田さんはこの図書館が設立されたときから、ここで働いておられるのですね」

「はい、ここで働くようになって、かれこれ十年になります。私が夫の仕事の関係でこの町に越してきたとき、新しくできた町営の図書館で司書を募集しているという話を耳にし、さっそく応募してみました。私は結婚前にしばらく大学の図書館で司書の仕事をしていたことがあり、いちおう資格も得ていましたし、何よりその仕事が気に入っていたのです。本は大好きでしたし、もともと几帳面な性格です。図書館での仕事は性に合っています。ちょうどこの部屋で、この館長室で、子易さんの面接を受けました。そして子易さんは私のことをどうやら気に入ってくださったようでした。それ以来ずっと、子易さんのもとで働いてきました。最初から一貫して、私がここの唯一の専属職員ということになっています。働きやすい職場ですし、こんな小さな町ですがその割に図書館の利用者は多く、やりがいもあります。冬が厳しくて長い地方に住む人々は、概してよく本を読みます。いろんな意味において、私にとっては満足のいく豊かな十年間でした」

「しかし、一年ばかり前に子易さんは亡くなってしまわれた」

 添田さんは静かに肯いた。「はい。本当に残念なことですが、子易さんはある日突然、亡くなってしまわれました」

Table of contents

previous page start next page