街とその不確かな壁

村上春樹



50



 次の休館日の朝、いつものように家を出て、子易さんの墓所に向かった。思いついたように時折はらはらと雪の舞う肌寒い朝で、解け残った雪が夜のうちに固く凍りついていた。太いタイヤ・チェーンを巻いた大型運送トラックが、がりがりという耳障りな音を立てて大地を痛めつけながら私の前を通り過ぎていた。吹き下ろす北風が耳に痛く、墓参りに適した気候とはとても言えそうにない。

 しかし週に一度、彼の墓所を訪問するのは習慣的な儀式というだけではなく、今では私には欠かすことのできない、心の張りのようなものになっていた。この町における生活の中で、私はそれをひどく必要としていたのだ。

 考えてみれば、子易さんは私にとって、奇妙な言い方かもしれないが、実際に生きているまわりのどんな人よりも生命の息吹をありありと感じさせてくれる人物だった。この町でというだけではなく、これまで私が身を置いたどのような場所にあっても。

 私は彼の独特のパーソナリティーに好意を持っていたし、その一貫した生き方に共感を抱くことができた。子易さんにとって運命は決して優しいものとは言えなかったが、彼は自己憐憫に陥るようなことはなく、少しでもその人生を──自分にとっても周囲の人々にとっても──有益なものとするべく、精一杯努力をした。

 その生活はかなり孤立したものではあったけれど、それでも彼は他者との心の交流を大切にした。なにより読書を愛し、財政難に陥った町営図書館の始末を引き受け、私財を投じてその運営にあたり、蔵書を充実させた。おかげで小さな町のほとんど個人的な図書館にしては、その蔵書は数においても質においても、驚くほど充実したものになっていた。私はそのような子易さんの折り目正しい生き方について、敬意を払わないわけにはいかなかったし、毎週月曜日の墓所への訪問は墓参りというより、生きている友人に会いに行くような心持ちのものになっていた。

 しかしその二月の朝は、格別に冷え込んで、さすがに墓前でゆっくり独白に耽っているような余裕はなかった。二十分ばかりで諦めてそこを引き上げ、残った雪でつるつると滑る寺の階段を、転ばないように注意して降りた。そしていつものように駅近くの小さなコーヒーショップに入って暖をとり、温かいブラック・コーヒーを飲み、マフィンをひとつ食べた。店にはプレーンとブルーベリーの二種類のマフィンが置かれていたが、私が食べるのはいつもブルーベリーの方だ。

 雪の舞う月曜日の朝のコーヒーショップには、私の他に客は一人もいなかった。いつもの女性──髪を後ろでぎゅっと束ねた、おそらくは三十代半ばの女性──がカウンターの中で働いているだけだ。そしていつものように小さな音で古いジャズがかかっていた。ポール・デズモンドがアルトサックスを吹いていた。そういえば最初にこの店に来たときデイヴ・ブルーベック・カルテットがかかっていて、そこでもデズモンドがソロを吹いていた。

「ユー・ゴー・トゥー・マイ・ヘッド」と私は独り言を言った。

 女性がマフィンをオーヴンで温めながら、顔を上げて私を見た。

「ポール・デズモンド」と私は言った。

「この音楽のこと?」

「そう」と私は言った。「ギターはジム・ホール」

「ジャズのことは私、あまりよく知らないんです」と彼女は少し申し訳なさそうに言った。そして壁のスピーカーを指さした。「有線のジャズ・チャンネルをそのまま流しているだけだから」

 私は肯いた。まあ、そんなところだろう。ポール・デズモンドのサウンドを愛好するには彼女は若すぎる。私は運ばれてきた温かいブルーベリー・マフィンをちぎって一口食べ、温かいコーヒーを飲んだ。素敵な音楽だ。白い雪を眺めながら聴くポール・デズモンド。

 そしてそのときふと思った。そういえば、あの街では音楽というものをまったく聴かなかったな、と。それでも淋しいとは思わなかった。音楽を聴きたいという気持ちがまったく起きなかった。音楽がないということにすら気がつかなかったくらいだ。どうしてだろう?


 気がついたとき、カウンターのスツールに腰掛けた私の隣に、イエロー・サブマリンの少年が立っていた。私はブルーベリー・マフィンをちょうど食べ終え、口元を紙ナプキンで拭っているところだった。少年はいつもの紺色のダウンジャケットのジッパーを首のところまであげて、マフラーを顎の上まで巻いていたから、彼がイエロー・サブマリンの絵のついたパーカを着ているのかどうかまではわからなかった。でもたぶん着ているはずだ。

 少年がそこにいるのを目にして、私は一瞬わけがわからなくなった。なぜ彼がそこにいるのだろう? 私がこのコーヒーショップにいることがなぜ彼にわかったのだろう? 私のあとをつけてきたのだろうか? それとも私が毎週月曜日、墓参りの帰り道にここに立ち寄ることを知っていて、私に会うためにここにやって来たのだろうか?

 少年は私の隣に立っていたが、私を見ているわけではなかった。そこに姿勢よく立って、カウンターの中にいる女性をまっすぐ見ていた。両目を大きく開けて、顎をぐいと引くようにして。彼女は「なんでしょう?」という顔つきで、職業的な微笑みを小さく浮かべながら少年を見ていた。でもこの店の客にしては彼は若すぎる。まだ子供みたいだ。

「あなたの生年月日を教えてくれますか」と彼は彼女に尋ねた。丁寧な口調で、まるで紙に書かれた文章を読み上げるみたいに正確に。

「私の生年月日?」

「生年月日」と彼は言った。「何年、何月、何日」

 女性は(まあ当然のことながら)そう言われて少し戸惑っていたが、やがて「生年月日を公開してもとくに害はあるまい」という結論に達したらしく、それを少年に教えた。

「水曜日」と少年は即座に通達した。

「水曜日?」と彼女は言った。何のことか意味がわからないという顔つきで。

「あなたの生まれたその日は、水曜日だったということですよ」と私が隣から助け船を出した。

「知らなかったわ」と彼女は言った。まだ事態がよく呑み込めないという表情で。「でも、どうしてそんなことがすぐにわかるのかしら?」

「さあ」と私は言った。最初から順番に説明すると話が長くなる。「でもとにかくこの子にはわかるみたいだ」

「コーヒーのお代わりはいかがですか?」と彼女は私に尋ねた。私は肯いた。

「水曜日の子供は苦しいことだらけ」と私は独り言のように言った。

 少年はダウンジャケットのポケットから大判の封筒を取り出し、私に手渡した。そして手渡したことを確認するようにひとつ肯いた。私はそれを受け取り、同じようにひとつ肯いた。西部劇映画に出てくる、アメリカ・インディアンの煙管きせるの受け渡しみたいに。

「よかったら、マフィンを食べていかないか?」と私は少年に尋ねてみた。「ここのブルーベリー・マフィンはとてもおいしいよ。作りたてだし」

 しかし私の言ったことが耳に入ったのか入らなかったのか、彼はそれには返事をせず、しばらく私の顔をじっと見上げていた。私の顔が発する何かしらの情報を、記憶に正確に刻み込もうとするみたいに。金属縁の丸い眼鏡が天井の照明を受けてきらりと光った。それから少年はくるりと背中を向けて、無言のまま戸口に向かい、ドアを開けて店から出て行った。はらはらと舞う細かい雪の中に。

「お知り合いなんですか?」と彼女がその後ろ姿を見送りながら私に尋ねた。

「うん」と私は言った。

「なんだかちょっと不思議な子みたいですね。ほとんど口もきかないし」

「実を言うと、ぼくもやはり水曜日の生まれなんだ」と私は言った。話題を少年から逸らすために。

「水曜日の子供は苦しいことだらけ……」と彼女は真剣な顔つきで言った。「さっきそう聞こえたけど、それって本当のこと?」

「ただの古い童謡の文句だから、気にすることはないよ」と私は言った。自分がいつか添田さんに言われたとおりに。

 彼女はそこでふと思い出したように、ソフト・ジーンズのポケットから赤いプラスティック・ケースに入った携帯電話を取りだし、細い指を器用に使って、素速く画面をタッチしていたが、やがて顔を上げて感心したように言った。

「うーん、あってるわ。私の誕生日は本当に水曜日でした。間違いなく」

 私は黙って肯いた。そう、もちろん水曜日に決まっている。イエロー・サブマリンの少年が計算を間違えるわけがないのだ。確認するまでもない。しかし自分の誕生日が何曜日だったのか、グーグルを使って調べれば、今では十秒もかからず誰にでも簡単にわかってしまうのだ。少年はそれをたった一秒で言い当てることができるわけだが、西部劇のガンファイトではあるまいし、十秒と一秒との間にどれほどの実利的な差があるだろう? 私は少年のために、少しばかり淋しく思った。この世界は日々便利に、そして非ロマンティックな場所になっていく。


 コーヒーのお代わりを飲みながら、少年にもらった封筒を開けてみた。中には予想したとおり一枚の地図が入っていた。それ以外には何も入っていない。前と同じA4サイズのタイプ用紙、同じ黒いボールペンで描かれた地図だ。高い壁に囲まれた、腎臓に似たかたちをした街の地図。ただし私が数日前に指摘した七つほどの間違った点は、すべて描き直されていた。そこに表記された情報は、より詳細で正確なものになっていた。いわば「改訂版」の街の地図だった。私は地図を封筒に戻した。少なくとも少年は私の発したメッセージに反応してきたのだ。相手のコートに打ったボールは、ネットを越えてこちらにまた打ち返されてきた。それはひとつの進展だった。意味を含んだ、おそらくは好ましい進展だ。

 私は持ち帰り用にブルーベリー・マフィンを二つ買って、紙袋に入れてもらった。レジで勘定を済ませているときに、カウンターの中の女性が私に言った。

「なんだか気になっちゃうんだけど、水曜日生まれの子供たちがみんな苦しいことだらけって、そんなことはまさかありませんよね?」

「大丈夫、そんなことはないと思うよ」と私は言った。確実な保証はできないが、たぶん


 翌日の火曜日の朝、少年は図書館に姿を見せた。その日の彼は、いつもの「黄色い潜水艦」の絵のついた緑色のパーカではなく、「ジェレミー・ヒラリー・ブーブ博士」の絵のついた薄茶色のパーカを着ていた。「潜水艦」の方はたぶん母親の手で洗濯に回されており、それが乾くまでの間、彼は代用品を着ることになる。しかし着ている服が異なっても、彼の行動パターンには寸分も変化はなかった。閲覧室のいつもと同じ窓際の席に陣取り、そこで脇目も振らず本を読んでいた。その姿は、満開の花の蜜を一滴残らず飲み干そうとしている蝶の姿を私に思い起こさせた。それは花にとっても蝶にとっても、互いに有益な行為なのだ。蝶は栄養を得て、花は交配を助けてもらう。共存共栄、誰も傷つかない。それは読書という行為の優れた点のひとつだ。

 私はその日は半地下の部屋ではなく、二階の正規の館長室で仕事をしていた。小さなガスストーブだけでは部屋は十分に暖かくならないが、久しぶりに雲が切れて太陽が顔を出した日だったので、気分転換のために、縦長の窓のあるその明るい部屋で仕事をすることにしたのだ。少年にもらった新しい地図を、封筒に入れたままデスクの上に置いていたが、それを取り出さないように心がけていた。とりあえず早急に片付けなくてはならない用件が入っていたし、いったん地図を広げて眺め出すと、そちらに気持ちが惹かれて、仕事が手につかなくなってしまうからだ。

 そう、その少年の描いた街の地図には、何かしら人の心をそそる──あるいは惑わせる──特殊な力が潜んでいるらしかった。少なくともそれは、A4のタイプ用紙に黒いボールペンで描かれたただの地図ではなかった。見るものの心の中にある(そして普段はうまく奥に隠されている)何かを呼び起こす、起動力のようなものがそこには潜んでいた。そして私はその力にあらがうことができなかった。だから私はその日、地図を封筒から出すまいと心を引き締めていた。なんとか今日いちにちは、こちらの世界にしがみついていなくてはならない──おそらくは「現実の世界」と呼ぶべきところに。それでも私の視線は知らず知らず、隙間風に吹き寄せられる木の葉のように、デスクの上に置かれたその大判の事務封筒の方に向かってしまうのだった。

 時折私は部屋のガラス窓を開け、そこから頭を突き出して外の風景を眺め、頭を冷やした。海亀やくじらが呼吸するために定期的に水面に顔を出すみたいに。しかしこんな冷え込んだ冬の日に──そして部屋はまるで暖かくないのに──どうしてわざわざ外気で頭を冷やさなくてはならないのか、自分でも不思議だった。しかしそれはその日の私にとって、欠かすことのできない必要な行為だった。自分が今「こちら側の世界」に生きていると確認すること。

 窓の下の庭を猫が歩いているのが見えた。縁側の下で五匹の子猫を育てていた母猫だ。でも今では子供たちの姿はなく、白い息を吐きながらひとりでゆっくり庭を横切っている。尻尾をまっすぐ上に立て、彼女は慎重に歩を運んでいた。どこかに向けてほとんど一直線に。真冬の凍てついた大地は、彼女の四本の足には冷たすぎるようで、その歩みはいかにも痛々しく見えた。私は彼女が視界から姿を消してしまうまで、そのほっそりした優美な姿を目で追っていた。それから窓を閉め、デスクの前に座ってやりかけていた仕事を続けた。


 正午の少し前に添田さんが遠慮がちにドアをノックした。

「今、ちょっとよろしいですか?」と彼女が尋ねた。

 もちろん、と私は言った。

「実は、M**くんが、こちらにうかがいたいと言ってきたのですが」と添田さんは言った。

「かまわないよ」と私はすぐに言った。「通してあげてください」

 添田さんは軽く目を細め、肯いた。

「できたら紅茶を二人ぶんもらえないかな。それから、これも温めてほしいんだけど」と私は言って、ふたつのブルーベリー・マフィンが入った紙袋を彼女に手渡した。

「マフィンですね」、添田さんは中をのぞいて言った。眼鏡の奥で目がきらりと光った。

「ブルーベリー・マフィン。昨日買ったものだけど、電子レンジで少し温めれば、まだじゅうぶんおいしいと思う」

 添田さんはその紙袋を持って戸口に向かった。「まず彼をここに連れてきて、そのあとで紅茶とマフィンをお持ちします」

「ありがとう」


 五分後にドアが再びノックされ、添田さんに付き添われて「ジェレミー・ヒラリー・ブーブ博士」のパーカを着た少年がそろそろと中に入ってきた。励ましを与えるように彼の肩に軽く手を置いてから、添田さんは部屋を出て行った。ドアが背後で音を立てて閉まると、少年の表情は一段階より堅くこわばったみたいだった。まるで彼の周りで空気圧がいくらか高まったみたいに。たぶん添田さんがそばにいると、気持ちが落ち着くのだろう。私と二人きりになることにはまだ馴れていない。しかし何らかの理由があって(それがどんな理由だかまだわからないが)、私と接触することを必要としている。だからこそわざわざここに会いに来たのだ。おそらく。

「やあ」と私は少年に声をかけた。

 少年は反応を示さなかった。

「ここに来て座ったら」と私は彼に言って、デスクの前の椅子を指さした。

 彼は少し考えてから、用心深い猫のように慎重な足取りでデスクの近くにやって来たが、示された椅子にはちらりと目をやっただけで、腰は下ろさなかった。デスクの横にじっと立ったままだ。背筋を伸ばし、しっかり顎を引いて。

 あるいはその椅子が気に入らないのかもしれない。それとも椅子に座るところまでは私に気を許していない、という意思表示なのかもしれない。どちらにせよ、もし立っていた方が気が楽なのであれば、立っていればいい。私はそのことはとくに気にとめなかった。

 少年はそこに立ったまま何も言わず、デスクの上に置かれた大判封筒を見つめていた。彼の描いた街の地図が収められた封筒だ。それが私のデスクの上に置いてあることが、彼の注意を惹きつけているようだった。顔は薄い仮面をかぶったように無表情だったが、その奥では何かしらの思考が、かなり速いスピードで進行しているように見えた。

 私はとりあえず彼をそのままにしておいた。深いところで進行している(らしい)思考の邪魔をしたくなかったし、それに間もなく添田さんが紅茶とマフィンを持ってやって来るはずだ。私と少年との間に何か対話のようなものがあるとすれば、それがいかなるものであれ、その後のことになるだろう。普段茶菓を運ぶような雑用を務めるのは司書の添田さんではなく、パートの女性たちだが、おそらく今回は添田さん自らが、紅茶とマフィンを運んでくるだろうと私は予測した。この少年が関連するものごとは、彼女にとっても個人的に大事な意味を持つことらしかったから。


 運んできたのは、思った通り添田さんだった。彼女は丸い盆を手に部屋に入ってきた。盆の上には紅茶のカップが二つ、小さな砂糖壺と輪切りにしたレモン、そしてブルーベリー・マフィンの皿が載せられていた。カップも皿も砂糖壺も揃いの柄で、どれも古風で美しいものだった。ウェッジウッドのようにも見える。スプーンとフォークは銀製らしく、謙虚に上品に光っていた。どれも子易さんが自分の家から、個人的に持ち込んだものなのだろうと私は推測した。どう見ても小さな町の図書館で出てくるような類いのものではない。おそらく特別な来客にだけ出される食器なのだろう。

 添田さんは軽やかな音を立てながら、私のデスクの上にそれらのカップと皿と砂糖壺を並べた。おかげで普段はがらんとして殺風景な部屋にも、昼下がりのサロンのような優雅で穏やかな雰囲気が生まれた。モーツァルトのピアノ四重奏曲が似合いそうな情景だ。

 駅前のコーヒーショップで買ってきたマフィンも紙袋から出され、美しい絵柄のついた皿の上に、銀のフォークを添えて供されると、由緒正しい立派な菓子のように見えた。これで三角に折り畳まれた白いリネンのナプキンが添えられていれば、そして赤い薔薇の一輪挿しでもあれば完璧なのだが、いくらなんでもそこまでは期待できない。

「どうもありがとう。とても素敵だ」と私は添田さんに礼を言った。

 添田さんは何も言わずとくに表情も変えず、ただ小さく肯いて部屋を出て行った。そして私と少年はまたその部屋に二人だけになった。

 少年はそのあいだ一言も口にしなかった。添田さんが部屋に入ってきて、そして出て行っても、そちらを見向きもしなかった。デスクの上に並べられた紅茶とマフィンにも、優雅な食器と銀器にも、まったく注意を払わなかった。彼はそこに置かれた封筒を、ただまっすぐ見つめていた。その鋭い視線には微塵も揺らぎはなかった。そして表情を欠いた顔の奥で、思考作業はいまだ休みなく進められているようだった。

 私は紅茶のカップを手に取って一口飲んだ。程よい熱さと濃さだった。子易さんの淹れてくれた紅茶もずいぶんおいしかったが、添田さんも紅茶を淹れるのが上手であるらしい。彼女はたぶんどんなことでも──もしそれが探求に値するものであればということだが──熱心に探求するタイプなのだろう。知的で注意深く、何ごとにも怠りのない女性だ。

 そんな女性の夫はどのような人なのだろう、と私はふと考えた。私はまだその人物に会ったことはないし、彼女から夫についてのまとまった話を聞いたこともない。だからその人間像らしきものは頭に浮かんでこなかった。私が辛うじて知識として持っているのは、彼が福島県の出身であり(しかしこの土地の生まれではない)、十年ほど前からこの町の小学校に勤務する教師であり、かつて「イエロー・サブマリンの少年」を担任したということくらいだ。いつか私がその人物に会って話をする機会はあるのだろうか?


 やがて少年の表情のこわばりが少しばかり和らいだように見えた。その思考作業もどうやら峠を越したらしく、速度もいくぶん遅くなってきたように見えた。そういうちょっとした緩みの感覚がこちらにも伝わってきた。まだ緊張は続いているものの、前ほど強固なものではなくなったらしい。

 それから少年はようやく封筒から目を逸らし、デスクの上にきれいに並べられた紅茶とマフィンに目をやった。

「ブルーベリー・マフィン」と私は言った。「なかなかおいしいよ」

 昨日、私がコーヒーショップで彼に向かって口にしたのと同じ台詞だ。昨日はその誘いかけはまったく無視された。でも今回、少年はその菓子に興味を惹かれたようだった。彼は長いあいだそれをじっと見つめていた。ポール・セザンヌが鉢に盛られた林檎の形状を見定めるときのような、鋭く批評的な眼差しで。

 彼の口が細かく動いているのがわかった。まるで言葉を小さくつくりかけては、それを拭い去るといった風に。しかしその口から言葉は出てこなかった。彼は生まれて初めてブルーベリー・マフィンというものを目にしたのかもしれない。そしてブルーベリー・マフィンに関する情報を自分の中に採取しているのかもしれない。しかしブルーベリー・マフィンがいったいどれほどの情報をその内に含んでいるのだろう? それも私には見当がつかないことだった。この少年に関してはわからないことが多すぎる。私はフォークでマフィンを半分に切って、それをもう半分に切り、その四分の一のマフィンを口に運んだ。

「うん、あたたかくておいしい」と私は言った。「あたたかいうちに食べるといいよ」

 少年は私がその四分の一のマフィンを食べる様子をじっと見ていた。子猫たちに授乳している母猫を見るのと同じような目つきで。それから手を伸ばしてマフィンを皿から摑み上げ、そのままがぶりとかじった。フォークも使わなかった。かけらがこぼれないように皿を使うこともしなかった。当然ながらぼろぼろとかけらが床に落ちたが、少年はそのこともとくに気にしないようだった。私もとくに気にはしなかった。あとで床を掃除すればいいだけのことだ。

 少年は三口でそのマフィンを勢いよく食べてしまった。口を大きく開け、かなり派手に音を立てて。口元にブルーベリーの青みがべっとりとついていたが、そのこともとくに気にはしていないようだった。私もとくに気にはしなかった。何もペンキがついたわけじゃない。ただのブルーベリーの果汁だ。あとでティッシュ・ペーパーを使って拭き取ればいい。

 あるいは彼はそのように粗暴に振る舞うことで私を挑発し、試しているのかもしれない、ふとそう思った。少年は裕福な家に育ったと添田さんから前に聞かされていた。おそらくそれなりのしつけも受けているはずだ。だとしたら彼はわざと無作法な態度をとって、それに対する私の反応を見ているのかもしれない。そのようにして、新しいボールを私のコートに打ち込んできているのかもしれない。それともただ彼はテーブル・マナーみたいなものをまるで理解していない──あるいは理解する必要を認めていない──というだけのことかもしれない。

 いずれにせよ私はすべてをそのままにしておいた。この少年を前にしたときは、ものごとをあるがままに受け入れていくしかない。ブルーベリー・マフィンに興味を持って、それを実際に手に取って食べてくれただけでも、私と彼の関係にとっては大事な一歩前進であるはずだ。

 私はフォークでもうひとつの四分の一のマフィンを口に運び、それを静かに食べた。そしてハンカチーフで口元を軽く拭き、紅茶を一口飲んだ。少年も立ったまま紅茶のカップを手に取り、砂糖もレモンも入れず、そのままずるずると音を立ててすすった。もちろんそういうのもテーブル・マナーとしては明らかに失格だ。おまけにその食器は(おそらく)ウェッジウッドなのだ。しかし私はやはり知らん顔をしていた。

「なかなかおいしいマフィンだよね」と私はのんびりした声で少年に言った。

 それについて少年は何も言わなかった。唇についたブルーベリーを舌で器用に舐めただけだ。猫たちが食後によくそうするように。

「昨日、あのコーヒーショップで買って帰ったんだ。今日のお昼にでも食べようと思って」と私は言った。「それを添田さんに電子レンジで温めてもらった。ブルーベリーはこの近くの農家でつくっているもので、それを使って近所のベーカリーが毎朝焼いている。だから新鮮なんだ」

 少年はやはり何も言わなかった。彼は空になった自分の皿をじっと見つめていた。太陽が沈んでしまったあとの水平線を、一人デッキに立っていつまでも眺めている孤独な船客のように。

 私はマフィンを半分残した自分の皿を手に取って、彼の方に差し出した。

「半分残っているけど、よかったらもう少し食べないか?」

 少年は自分に向けて差し出された皿を二十秒ばかり見つめていたが、やがて手を伸ばしてそれを取った。そして少し考えてから、今度はフォークを使ってそれを半分に割り、皿で受けて静かに食べた。立ったままであることを別にすれば、とても正しいテーブル・マナーで。そして食べ終わるとズボンのポケットからティッシュ・ペーパーを取り出して、それで口元を拭った。

 私が食べる様子を見て学習したのか、それともただ私を挑発することをやめることにしたのか、それは判断できなかった。それから彼は空になった皿をデスクに戻し、音を立てずに静かに上品に紅茶を飲んだ。ボールは再びこちら側に打ち返されてきたのだ。おそらく。


 ブルーベリー・マフィンがなくなり、紅茶が飲み干されてしまうと、私は皿とカップと砂糖壺を盆に載せて片付けた。そしてデスクの上をきれいにした。今ではデスクの上には、地図を収めた封筒が置かれているだけだった。ちょうど子易さんがいつも紺色のベレー帽を置いていたあたりに。私は部屋の中をぐるりと見回した。ひょっとしたら、部屋のどこかに子易さんがいるのではないかとわずかな期待を込めて。でも誰もいなかった。この部屋にいるのはイエロー・サブマリンの少年(今日は違う図柄の同形のパーカを着ているが)と、この私だけだった。

「きみの描いた地図を見せてもらった」と私は言った。そして封筒から地図を出して、それを封筒の隣に置いた。「とても正確に描けている。ほとんど実物のとおりだ。感心した……というか、正直言って驚いたよ。ぼくがほとんどというのは、本当の正確な形をぼく自身が知らないからだ。だからそれはもちろんきみのせいじゃない」

 少年は眼鏡越しに私の顔をまっすぐ見ていた。ときどき瞬きをする以外に表情の動きをまったく見せることなく。彼の目には表情というものがなかった。時折その光の濃さが変化するだけだ。

 私は言った。「ぼくは一時期その街で暮らしていた。この地図に描かれている街にね。そこでもやはり図書館に勤めていた。しかしその図書館には一冊の本も置かれていなかった。ただの一冊も。かつて図書館だったところ……と言った方が近いかもしれない。そこで与えられた仕事は、本のかわりに書庫に積み上げられた〈古い夢〉を、毎晩ひとつひとつ読んでいくことだった。〈古い夢〉は大きな卵のような形をしている。そして白い埃をかぶっていた。大きさはだいたいこれくらいだ」

 私は両手を使ってその大きさを示した。少年はそれをじっと見ていたが、とくに感想は述べなかった。情報として収集しただけだ。

「どれほど長くそこで暮らしていたのか、自分ではわからない。季節は移り変わったけど、そこに流れていた時間は季節の移り変わりとは別のものだったような気がする。いずれにせよそこでは、時間というものはまず意味を持たない。

 とにかくそこに暮らしているあいだ、ぼくは毎日その図書館に通って、〈古い夢〉を読み続けた。どれほどの数の〈古い夢〉を読んだのか、数は覚えていない。でも数はそれほど大きな問題じゃない。というのは、古い夢はほとんど無限にあるみたいだったから。ぼくが仕事をするのは、日が落ちてからだった。夕方に読み始め、だいたい真夜中前にその作業を終えた。正確な時刻はわからない。その街には時計が存在しなかったから」

 少年は反射的に自分の腕時計に目をやった。そしてそこに時刻が表示されていることを確認し、また私の顔に視線を戻した。彼にとって時間はそれなりの意味を持っているらしかった。

「昼の時間は何をするのも自由だったけれど、あまり外には出られなかった。昼の光はぼくの眼を痛めたからだ。〈夢読み〉になるには、両眼を傷つけられる必要があり、その街に入るときに門衛の手でその処置を受けた。だから街の正確な地図をつくれるほど、外を思うように歩き回ることができなかったんだ。おまけに街を囲んだ煉瓦の壁は、日々少しずつその形を変化させていくようだった。まるでぼくが地図をつくっているのをからかうようにね。それもぼくが街の全容をうまく把握できなかった理由のひとつだ。

 壁は緻密に積み上げられた煉瓦でできている。とても高い壁だ。ずっと昔に積まれたものらしいけど、傷みや崩れのようなものはどこにも見当たらない。信じられないくらい丈夫にできている。誰もその壁を越えて外に出て行けないし、誰もその壁を越えて中に入ってはこられない。そういう特別な壁なんだ」

 少年はポケットから小さなメモ帳と、三色のボールペンを取り出した。スパイラルのついた縦長のメモ帳だ。そしてデスクの上でそこに何かを素速く書き付け、私に差し出した。私はそれを手に取って見た。そこには文章が一行、短く書かれていた。


 疫病を防ぐため


 端正な楷書体の文字だった。手早くすらすらと書かれたはずなのに、まるで活字印刷されたもののように見える。そしてそこには感情というものが一切れも含まれていない。

「疫病を防ぐため」と私は声に出して読んだ。そして少年の顔を見ながら、その短いメッセージについて私なりに考えを巡らせた。「つまりその煉瓦の壁は、疫病が街に入ってくるのを防ぐためにこしらえられた、そういうことなのかな?」

 少年は小さく肯いた。イエス。

「どうしてそんなことがきみにわかるんだろう」

 それに対する返事はなかった。彼は唇をぴたりと閉じ、相変わらず表情を欠いた顔で私を見ていた。おそらくそれは今ここで討議すべき問題ではないということなのだろう。

 しかしもしその壁が、少年の言うように疫病を防ぐために築かれたものであるとすれば、それでいろんな意味が通じるような気がした。いつのことかはわからないが、とにかくそれが築かれた時点から、その高い壁は住民を内側に閉じ込め、住民ではないものが中に入ることを阻止するべく、強固に厳密に機能してきたのだ。街に出入りできるのは、居留地に生息する単角獣たちと、門衛と、そして街が必要とする特殊な資格を得た僅かなもの──私もそのうちの一人だった──だけだ。門衛は疫病に対する自然の免疫を身につけていたのかもしれない。だから彼だけは自由に門を出入りできる。

 その壁は通常の煉瓦の壁ではない。それは自らの意思を持ち、独自の生命力を持ってそこにそびえている。そして街をその手でしっかり包み込んでいる。壁はいったいどの段階で、どのようにして、そんな特殊な力を身につけたのだろう?

「でも疫病はいつか終わったはずだ」と私は少年に言った。「どんな疫病も永遠には続かないものね。それでも壁はずっと変わることなく厳しく、その閉鎖状態を維持し続けている。誰も中に入れず、誰も外に出さない。それはどうしてだろう?」

 少年はメモ帳を手に取り、新しいページをめくり、そこにまたボールペンですらすらと字を書いた。


 終わらない疫病


「終わらない疫病」と私は声に出して読んだ。「それはいったいどういうことなんだろう?」

 やはり返答はない。だから私は自分の頭でその意味を考えなくてはならなかった。謎かけを解いているみたいだ。そしてそれはずいぶんむずかしい謎かけだ。謎の奥深さに比べて、与えられたヒントが少なすぎる。でも何はともあれ私はサーブされてきたボールを、相手のコートに打ち返さなくてはならない。それがゲームのルールだ。もしそれをゲームと呼ぶことができるなら。

 私は思い切って言った。「実際の疫病ではない疫病。つまり比喩としての疫病……そういうことだろうか?」

 少年はごく小さく肯いた。

「それはひょっとして、魂にとっての疫病というようなことなのだろうか?」

 少年はもう一度肯いた。こっくりと確かに。

 私はそれについてしばらく思考を巡らせていた。魂にとっての疫病。それから言った。

「街は、というか当時の街をつかさどっていた人々は、外の世界で蔓延する疫病を閉め出すことを目的として、高い頑丈な壁で街のまわりを囲った。ぴったり隙間なく封をするみたいに。そのように誰ひとり中に入れず、誰ひとり外に出さない強固な体制が整えられた。その壁の構築にはおそらく、呪術的な要素も盛り込まれていたことだろう。

 しかしやがてどこかの段階で何かが起こって──それがどんなことかはわからないけれど──壁はそれ独自の意思と力を持って機能するようになった。その力は、人にはもはや制御しきれないほど強力なものになっていた。そういうことなのだろうか?」

 少年はただ黙って私の顔を見ていた。イエスでもノーでもなく。でも私は続けた。それはあくまで推測ではあったけれど、おそらく単なる推測を超えたものだった。

「そして壁は、すべての種類の疫病を──彼らが考える『魂にとっての疫病』をも含めて──徹底して排除することを目的として、街とそこに住む人々を設定し直していった。いわば街を再設定したんだ。そしてそれ自体で完結する、堅く閉鎖されたシステムを作り上げた。きみが言いたいのはそういうことなのか?」


 そこで唐突にノックの音が響いた。誰かがドアをノックしていた。大きな音ではない。乾いた簡潔な音──現実の世界から届けられた現実の音だ。二度、それから少し間をあけてまた二度。

「どうぞ」と私は言った。自分の声ではない、誰か別の人の声で。

 ドアが半分開いて、添田さんが部屋の中に首を差し入れた。

「食器をお下げしにきましたが」、彼女は遠慮がちにそう言った。「もしお邪魔じゃなければ」

「どうぞ下げてください。ありがとう」と私は言った。

 添田さんは足音を忍ばせて部屋に入ってくると、皿とカップを載せた盆を手に取り、すべてが空になっていることを素速く確認した。そのことは彼女に、少なからず安堵を与えたようだった。それから床にこぼれたマフィンのかけらを目にしたが、それは見ていないことにしようと決めたようだった。あとで戻ってきてかたづければいい。

 添田さんは軽く問いかけるように私の顔を見た。私が「なにも問題はない」というように肯くと、そのまま盆を持って部屋を出て行った。ドアが閉められるかちんという金具の音。そして部屋は再び沈黙に包まれた。


 少年はメモ帳の新しいページを開き、そこにボールペンで素速く文章を書いた。そしてデスク越しにメモ帳を私に差し出した。私はそれを読んだ。


 その街に行かなくてはならない


「その街に行かなくてはならない」と私は声に出して読んだ。そしてひとつ咳払いをしてから、メモ帳を彼に返した。少年はそれを手にようやく椅子に座り、そこから私の顔をまっすぐ見ていた。奥行きの測れない目で、一途に揺らぐことなく。

「きみは、その街に行きたいと望んでいる」と私は確認するように言った。「高い壁に囲まれた街に。人々が影を持たず、図書館が一冊の本も持たないその街に」

 少年はきっぱり肯いた。議論の余地はない、というように。

 しばらくの間、沈黙が続いた。重い濃密な沈黙だった。多くの意味を含んだ沈黙だ。それから少年のいくぶん甲高い声がその沈黙を破った。

「その街に行かなくてはならない」

 私はデスクの上で両手の指を組み、その指をしばらく意味もなく眺め、それから顔を上げて彼に尋ねた。「もしそちらに行けば、もうここにいられなくなるとしても?」

 少年はもう一度きっぱり肯いた。

 私は少年が門をくぐり、その壁に囲まれた街に入っていって、そこで生活を送る様子を、頭に思い描いてみた。そこはおそらく彼にとっての「ペパーランド」なのだろう。映画『イエロー・サブマリン』に出てくるカラフルな理想郷、ペパーランド。この十六歳の少年は、自分を受け入れる余地を持たない(ように見える)この現実の世界で生き続けるよりは、そのような別の成り立ちの世界に移行することを求めているのだ──心の底から何より真剣に。少年と向き合って座りながら、私はその真剣さを痛切に肌に感じずにはいられなかった。

 またしばし沈黙の時間があり、それから少年がやはり声に出して言った。

「〈古い夢〉を読む。ぼくにはそれができる」

 そして少年は自分を指さした。

「きみには〈古い夢〉を読むことができる」、私は彼の言葉を自動的に繰り返した。

「そこの図書館で〈古い夢〉を読む。いつまでも」

 楷書体で筆談をするときと同じように、ひとつひとつ言葉をきれいに区切って、少年はそう言った。

 私は黙って肯いた。

 そう、この少年にならそれができるだろう。それはこの図書館で現在、彼が日々送っているのとほとんど同じ成り立ちの生活なのだから。そしてそこには、その図書館の奥には、彼が読むべき〈古い夢〉が埃をかぶってうずたかく積み上げられている。数え切れないほど、おそらくは無限に。そしてどの夢もそれぞれ、世界にただひとつしか存在しない夢なのだ。

「その街に行かなくてはならない」と少年は前よりもっと明瞭な声で繰り返した。

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