街とその不確かな壁

村上春樹



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「その街に行かなくてはならない」と少年は繰り返した。

「こちらの世界を離れて、壁の内側に入りたいということなんだね?」と私は言った。

 少年は黙って短くきっぱり肯いた。

 でもその壁に囲まれた街は、言うまでもないことだが、ペパーランドとは違う。ペパーランドはアニメーション映画のためにこしらえられた架空の理想郷だ。そこでは美しい人々が、美しい自然に囲まれて、美しい生活を送っている。愉しい音楽が溢れ、カラフルな花が満ちている。一九六〇年代のドラッグ・カルチャーの匂いがうっすらと漂う、いっときの夢想の世界だ。しかし「壁に囲まれた街」はそうではない。

 そこでは冬の厳しい寒さのために、獣たちが次々に飢えて命を落としていく。そこに住む人々は、寡黙に貧しい生活を送っている。与えられる食事は簡素で少量で、衣服は擦り切れるまで着古されている。書物もなく、音楽もない。運河は干上がり、多くの工場は閉鎖されている。人々が暮らす共同住宅はうす暗く、傾きかけている。犬も猫も存在しない。目にする生き物といえば、壁を越えて行き交うことができる鳥たちくらいだ。理想郷からはほど遠い世界だ。少年はそのような街のあり方を、どこまで理解しているのだろう?

 私はそのことを少年に詳しく語ろうかと思ったが、思い直してやめた。おそらくそんな事情はすべて既に承知しているはずだ。そして一切を呑み込んだ上で、その街に行こうと心を決めたのだ。綿密に考え抜いた末に出した、変更の余地のない結論なのだ。少年の迷いのない顔を見ていると、決意の固さがわかった。しかしそれでもなお私としては今一度、彼の気持ちを確認せずにはいられなかった。

「その街に入るためには影を棄て、両眼を傷つけられなくちゃならない。そのふたつが門をくぐるための条件になる。切り離された影は遠からず命を失うだろうし、影が死んでしまったら、きみはもうその街から出て行くことはできない。それでかまわないんだね?」

 少年は肯いた。

「こちらの世界の誰とも、もう会うことができなくなるかもしれない」

「かまわない」と少年は声に出して言った。

 私は深く息をついた。この少年はこの現実の世界とは心が繫がっていないのだ。彼はこの世界に本当の意味では根を下ろしてはいない。おそらくは仮けいりゅうされた気球のような存在なのだろう。地上から少しだけ浮いたところで生きている。そしてまわりの普通の人たちとは違う風景を目にしている。だから留めてあるかぎを外して、この世界から永遠に立ち去ってしまうことに、苦痛も恐れも感じないのだ。

 私は思わず自分のまわりを見回した。私はこの地上のどこかにしっかり繫がっているだろうか? そこに根を下ろしているだろうか? 私はブルーベリー・マフィンのことを思った。駅前のコーヒーショップのスピーカーから流れる、ポール・デズモンドのアルトサックスの音色を思った。尻尾を立てて庭を横切って歩いて行く瘦せた孤独な雌猫のことを思った。それらは私の精神をこの世界に少しなりとも繫ぎ留めているだろうか? それともそんなものは、語るに足らないあまりに些細な事象なのだろうか?

 私は少年を見た。彼は金属縁の眼鏡の奥から目を細めて私を見ていた。私の心の動きを読み取っているみたいに。

「でもいったいどうやって、きみはその街に行くつもりなんだろう?」

 彼は私を指さし、それから自分自身を指さし、その指をあらぬ方向に向けた。

 私はそのジェスチャーを自分の言葉に置き換えた。「ぼくがきみをそこまで連れて行く。そういうこと?」

「ジェレミー・ヒラリー・ブーブ博士」の絵のついたパーカを着た少年は、黙ってこっくりと肯いた。イエス。

 私は言った。「でも、ぼくにそんなことができるんだろうか? ぼくは自分の意思で、行きたいと思って、その街に行くことはできない。ましてや、きみをそこまで案内して行くなんてとてもできそうにない。ぼくは何かの偶然で、たまたまそこにたどり着いたというだけなんだ」

 少年はひとしきりそれについて考えを巡らせていた(あるいは考えを巡らせているように見えた)。それから何も言わずに椅子からさっと立ち上がった。そしてポケットからきれいに折り畳まれた白いハンカチーフを出して、もう一度丁寧に口元を拭った。それはブルーベリー・マフィンをもらったことへの謝意を表す、彼なりのジェスチャーだったのかもしれない。あるいはただの習慣的行為だったかもしれない。その違いは私にはわからない。

 彼はハンカチーフを元のポケットにしまうと、ドアまで歩いて行ってそれを開き、後ろを振り返ることもなく、別れの挨拶らしきものをするでもなく、そのまま部屋から出て行った。彼の背後でドアが乾いた金属の音を立てて閉まり、私は部屋に一人きりで残された。


「ぼくがきみをそこまで連れて行く?」

 一人になった私は小さな声で自分に向けてそう語りかけた。

 そして自分が少年の手を引いて、街の門の前に立っている光景を思い浮かべた。「イエロー・サブマリン」の緑色のパーカを着た少年は、迷うことなく私と別れ(後ろを振り向くこともなく)、そのまま門の中に足を踏み入れていくことだろう。

 私がその門をくぐることはもう二度とあるまい。私はそのための資格を既に剝奪されてしまっているのだから。少年を見送り、門が再び閉ざされるのを見届けたあと、私はひとりでこちら側の世界に引き返してくることだろう。

 私は立ち上がって窓際に行き、窓を上に押し開け、そこから首を出して何度か深呼吸をした。きりっとした冬の大気が肺をほどよく刺した。それから私は無人の冬の庭を長いあいだあてもなく眺めた。解け残った雪が、大地についた白いしみのようにところどころ固くこわばっていた。


 それから数日はこともなく過ぎた。晴れた日が続き、風も止み、明るい太陽が軒先に下がった太いつららを次々に溶かしていった。私は雪解けのしたたりの音を窓の外に聞きながら、机に向かって事務の仕事を続け、そのあいだ少年は相変わらず閲覧室で一心不乱に書物を読み続けた。私は添田さんに少年が今読んでいる本の書名を尋ね、彼女はそれを即座に教えてくれた。少年が読み耽っているのは『アイスランド サガ』であったり、『ヴィトゲンシュタイン、言語を語る』であったり、『泉鏡花全集』であったり、『家庭の医学百科』であったりした。どれもかなり分厚い本だ。彼はどうやら内容のいかんを問わず分厚い本が好みのようだった。きっと薄い本では物足りないのだろう。食欲の旺盛な人が、店でいちばん分厚いステーキを注文するのと同じことだ。


 館長室で二人きりで話をしてからその後一週間ばかり、私と少年は接触を持たなかった。イエロー・サブマリンのパーカを再び身に纏った少年は(おそらく洗濯から戻ってきたのだろう)、緑色のナップザックを背負って、日々同じように図書館に姿を見せていたが、閲覧室で彼の近くを通りかかることがあっても、私の方から話しかけたりはしなかったし、彼もまたこちらを見ようとはしなかった。少年は意識を集中して本に読み耽っており、他のどんなことにもいっさい興味を惹かれないという風に見えた。おそらく実際にそのとおりだったのだろう。そして私は自室の机に向かい、図書館の主宰者としての日常の職務をひとつひとつこなしていった。退屈と言えば退屈な事務作業だが、内容が書籍に関連するものであれば、ただの番号の照合のような作業であっても、私はそこに楽しみを見いだすことができた。私たちは──少年と私自身は──この現実の地上の世界において、それぞれになすべき事をなしているのだ。


 イエロー・サブマリンの少年は、あの高い壁に囲まれた街に行きたい、そこの住民になりたいと心から望んでいる。こちらの世界に二度と戻れなくてもかまわないと心を決めている。こちら側の世界には、彼を引き留めるだけの力を持つものは何ひとつ存在しない。それははっきりしている。しかし彼一人の力では、その街に行き着くことはできない。彼は私の「導き」を必要としている。その街に到達する道筋を知っているのは──あるいは一度でもその道筋をたどった経験を持つのは──私一人だけだから。

 しかし私はその街に行く具体的な道筋を記憶しているわけではない。かつてそこに行ったことがあるというだけのことだ。というか正確に表現すれば、私は無意識のうちにそこに連れて行かれたのだ。もう一度同じ道をたどれといわれても、その方法がわからない。

 そしてもうひとつ、私に判断のつかないことがある。それは、少年をあちらの世界に連れて行くのが、本当に正しい行いなのかどうかという問題だ。それはモラルとして許されることなのか? もし少年がその街の中に入っていって、〈夢読み〉としてそこに腰を据えることになれば、その結果彼の存在はおそらくこの現実の世界から消滅してしまうことだろう。

 私は影を死なせなかったから、そして影を壁の外に逃亡させてやったから、こちらの世界にこうして復帰することができた(より正確に言えば送り返された)わけだし、その結果この世界における存在を消し去ることもなかった。それはあくまで推測に過ぎなかったけれど、私はだんだんそう確信するようになっていた。

 しかしもし少年が自分の影を引き剝がされ、その影が命を落とすことになれば、少年の存在はこちら側の世界から永遠に、決定的に失われてしまうだろう。添田さんによれば、彼には友だちはいないということだが、両親や兄弟たちはきっと彼がいなくなってしまったことを嘆き悲しむだろう。とりわけ彼を溺愛している母親は……。そのような事態を招くかもしれないことを、私がしていいものだろうか。いくら少年自身が真剣にそれを望んでいたとしても、またそれが少年の人生にとってより自然な流れであるように思えたとしてもだ。それは人間としての道義に反する行いではあるまいか?


 私はそのことについて誰かに相談してみたかった。たとえば子易さんに。彼ならおおむね事情を承知しているし、確かな知恵も持ち合わせている。それについて有効な助言を私に与えることができるかもしれない。しかし子易さんは──子易さんの幽霊は──長いあいだ私の前に姿を見せていなかった。ひょっとしたら、もう二度とその姿を目にすることはないかもしれない。彼の魂は既にこの地上を離れてしまったのかもしれない。その可能性は少なくない。魂がこの地上に留まっていられる期間は限定されていると彼は言っていた。そして魂が人の姿かたちをとって現れるのは、決して容易いことではないのだと。

 添田さんに相談してみることも考えたが、私が一時期、高い壁に囲まれた街に住んでいたことを、普通の生活を送っている人にわかりやすく説明するのは、どう考えても至難のわざだ。話がとても面倒になってしまう。彼女は少年の心配をするより前に、まず私の精神の状態を不安に思うかもしれない。そう、あの街の話を持ち出すわけにはいかない。私がそこで見聞きし体験したことを、そのまま受け入れ、理解してくれるのは今のところ、子易さんとイエロー・サブマリンの少年、その二人だけだ。

 私は添田さんのところに行って、できるだけ暇そうな時間を見計らって、世間話のようなかたちで彼女に少年のことを尋ねてみた。主に家庭環境について。

「M**くんはお母さんに溺愛されているって、いつか言ってましたね?」

「ええ、そうです。ほんとに、まるで猫かわいがりをするみたいに、M**くんのことをかわいがっています」

「お父さんは?」

 添田さんは小さく首を捻った。「お父様のことは、私はよく知らないのです。直接お目にかかったことはありませんから。ただ、よそから耳にしたところでは、お父様はあの子にはそれほど関心を抱いておられないのではないかということです。あくまで又聞きですから、確かなところはわかりませんが」

「あまり関心を抱いていない?」

「前にも申し上げたと思うのですが、上のお兄さん二人は地元の学校でも素晴らしい成績をとっていましたし、東京の有名大学に進んで、文字通りエリート・コースを歩んでいます。なにしろ自慢の息子たちです。どこに出しても恥ずかしくありません。それに比べ、一番下の息子は地元の高校に進学することもできず、毎日図書館に通って本ばかり読んで、なんだかわけのわからないことを口にしています。人前に出すこともはばかられます。お父様はそのことを気にしておられるようです」

「その人はこの町で幼稚園を経営しているということでしたね?」

「ええ、幼稚園を経営しておられます。なかなか立派な施設をもった幼稚園です。幼稚園だけではなく、他にも手広くビジネスを展開しておられます。学習塾とか成人向けの教室とか、そういうものを。経営者としてはやり手というか、たしかに優秀なのでしょうが、でもいわゆる教育者というタイプではなさそうです。少なくともそのように聞いています。

 M**くんは家では本を読むことを制限されています。本ばかり読んでいるのは不健康だからと言って、父親が本を少ししか買い与えてやらないのです。読書にあてていい時間も厳しく限られています。それは彼にはかなりつらいことであるはずです。彼にとって本を読むのは、呼吸するのと同じくらい自然なことですから」

「母親はどうなんだろう? あの子のことをどの程度理解しているのだろう? つまり彼の持っている生まれつきの特殊な能力とか、普通の子供たちとは違っているところを」

「母親は私の見るところ、かなり感情的な方です。彼のことを溺愛してはいますが、おそらくその本質は理解していません。あの子の持っている特殊な能力をうまく伸ばしてやろうとか、それを有効に活用できる場所を見つけてやろうとか、そういう気持ちはあまりないようです」

「だから手元から手放そうとはしない?」

「ええ、実を言いますと、私は彼女に何度か提案をしました。余計なことかもしれませんが、私なりの意見を率直に口にしました。彼のような子供を預かって教育する専門の施設が、全国にいくつかあるし、そういうところでなら、彼は持ち前の才能をうまく伸ばせるかもしれない、と。この町に留まっているかぎり、M**くんにはおそらく未来はありません。しかしそんな理屈を彼女の耳はいっさい受け付けません。自分の庇護のもとでしかあの子は生き延びていけないと頭から信じ切っています」

 私は添田さんの口にしたことについて、しばらく考えを巡らせた。そして言った。

「あなたの話だと、あの少年にとって家庭は居心地の良い場所とは言えないように聞こえますが」

「M**くんが何をどう感じているか、私にはもちろん知りようがありません。あの子が感情を表に出すようなことはまずありませんから。でも、そうですね、家庭は彼にとって決して心地よい場所とは言えないだろうと想像はできます。自分にろくに関心を持たない父親と、かまいすぎる母親。そしてどちらも彼のことを真に理解はしていませんし、理解しようという姿勢も持ち合わせていないようです」

「じゃあ、二人のお兄さんとの関係は?」

「東京に出ているお兄さんたちは、自分たちのことで精一杯っていうか、ずいぶん忙しいようです。お若いですから、それはまあ当然のことでしょう。故郷に戻ってくることもほとんどないみたいですし、ましてや落ちこぼれの風変わりな弟にかかわっている余裕はなさそうです」

「だから彼は毎日、家を出てこの図書館に通い続けている。誰とも口をきかず、一心不乱に本を読み続けている」

「今更言い出してもせんないことですが」、添田さんは言った。「子易さんが生きておられると良かったのにと心から思います。あの子は子易さんにだけは心を許していましたから。あの方が亡くなられたことは本当に残念です。M**くんにとっても、またこの図書館にとっても」

 私は肯いた。子易さんの死は、多くの場所に深い欠落を残していったのだ。


 添田さんから話を聞いて、少年の家庭の事情がより詳しく判明したことで、私の気持ちはいくぶん楽になったかもしれない。

 家庭から離れたい、この世界から出て行きたいと強く望むだけの理由が、その少年にはあるのだ。もし彼が突然この世界から消えてしまったなら、母親は間違いなく嘆き悲しむだろう。しかし少年のためには、母親から切り離されるのは好ましいことかもしれない。子猫たちがある時点で母猫から引き離され、自立していくのと同じように。母猫は子猫を失って、しばらくはあたりを必死に探し回るが、やがて諦め忘れてしまう。そして次のサイクルに入っていく。それは動物たちにとってはあくまで自然な行程なのだ。季節が巡るのと同じように。

 父親と二人の兄たちは、少年が急にどこかに消えてしまったり、あるいは亡くなってしまったりしたら、そのことでもちろん深く悲しみはするだろう。あるいは彼のことを十分気にかけなかったことで、少なからず良心の呵責のようなものを感じるかもしれない。しかし長く嘆き悲しんでいるには、彼らは自分たちのことで忙しすぎるのではないだろうか。また少年には友人と呼べるような相手は一人もいない。彼はこの世界ではどこまでも孤立した存在なのだ。彼が消えてしまっても、その空白は間を置かずに埋められてしまうことだろう。音も立てず、たいした波紋も広げず、とてもひっそりと。

 もし仮に私がその少年の立場に置かれていたとすれば──添田さんも言ったように、彼の立場に立ってその感情を推し量るのは簡単なことではないけれど──私だっておそらく、この町に留まるよりは、別の世界に移り住みたいと思うことだろう。

 たとえば高い壁に囲まれた街に。

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