街とその不確かな壁

村上春樹



54



 考え事をしながら歩いていたせいか、気がつくと、私の足は自宅にではなく図書館に向かっていた。腕時計の針は九時四十分を指していた。

 どうしたものか一瞬迷ったが、そのまま図書館に立ち寄ってみることにした。誰かと久しぶりに長く話をしたことで、またたぶん頰に残っていた柔らかな唇の感触のせいもあるだろう、私はどこかで──彼女の気配がまだ残っている自宅ではないところで──気持ちを少し落ち着かせたかった。そんな心持ちになるのは、考えてみれば久しぶりのことだ。

 なんだか高校生のデートみたい、と彼女は言った。そう言われてみれば、たしかにそうかもしれない。この土地にあっては、彼女も私も多くの意味でまだ「初心者」のようなものなのだ。新しく生じた環境に、心も身体もまだじゅうぶん馴染んではいない。新品の衣服に身体がうまく慣れないみたいに。動作にもしゃべり方にも、お互い少しずつぎこちないところがある。頰に軽くお礼のキスをされただけで気持ちが高ぶり、帰り道を間違えるなんて、レベルとしてはたしかに高校生並みかもしれない。


 コートのポケットから鍵束を出し、図書館の入り口の鉄扉を小さく開け、また閉めた。緩やかな坂を上り、玄関の引き戸を開けた。図書館の中は暗く冷え切っていた。壁付の非常灯の緑色の明かりが仄かに館内を照らしていた。夜中に図書館を訪れるのはこれが三度目だ。最初のときほどの緊張はない。暗がりに目を慣らしてから、非常灯の微かな明かりを頼りにカウンターに行って、常備してある懐中電灯を手に取った。その光で足元を照らしながら、廊下の奥にある半地下の部屋に向かった。

 私が半地下の部屋の扉をそっと開けたとき、中は暗かった。しかしストーブの中では火が燃えていた。炎が大きく燃え上がっているわけではないが、何本かの太い薪が確かなオレンジ色に輝いていた。そしていつもの林檎の古木の匂いが漂っていた。部屋の白い漆喰壁は火の輝きを受けて、オレンジ色にうっすらと染まっていた。

 私はあたりを見回してみた。誰かがストーブに薪を入れ、火をつけたのだ。おそらくは子易さんだろう。そして彼は私をここで待っていたのだ。しかし部屋の中にはその姿は見当たらなかった。ただ音もなく静かに火が燃えているだけだ。火はしばらく前につけられたらしく、火勢は安定し、小さな部屋は程よく暖まっていた。私はマフラーを外し、手袋をとり、ダッフルコートを脱いだ。そしてストーブの前に立って冷えた身体を温めた。

「子易さん」と私は試しに声に出してみた。返事はない。声は響きを欠いたまま四方の壁に吸い込まれていった。

 子易さんは私が今夜、道を間違えてこうしてここに立ち寄ることを、前もって知っていたのだろうか。それとも彼が意図して、私の足をこちらに向けさせたのだろうか。何かを伝えるために? 死者の魂がどれほどの能力を有しているのか、生きている私には見当もつかない。

 しかしその小さな部屋には、どれだけ見回しても子易さんの姿はなかった。部屋の中にいるのは間違いなく私だけだ。私は一人そこに立ち、ただ黙してオレンジ色の火を眺め、身体を温め、時間が過ぎていく様子を見守っていた。

 そのオレンジ色の火は、私の心に静かな温もりと安らぎを与えてくれた。古代の祖先たちも洞窟の奥でやはり同じように火を前にして、自分はこのいっとき、身を切る寒さや凶暴な獣たちの牙から守られているのだという安心感を得ていたことだろう。寒い夜に赤々と輝く火には、遺伝子に深く刻み込まれた集合的記憶を呼び起こすものがあった。


 少し前まで子易さんはこの部屋にいたのだ──まず間違いなく。そしてストーブに薪を入れて火をつけ、その火を弱すぎもせず強すぎもしないように給気を調整した。私がここにやって来る頃には、部屋が適度に心地よくなっているように、前もって準備してくれたのだ。そんなことをしてくれる人が子易さん以外にいるはずがない。なのに子易さん本人はここにはいない。彼はストーブの火を残して、どこかにいなくなってしまったのだ。

 何か急に用事ができたのかもしれない。死者にどんな急用ができるものか、私にはもちろん知りようもないわけだが、しかしとにかく何かしらの用件が生じて、ここで私の来訪を待っていることができなくなった。そういうことだろうか。あるいはストーブに火をつけたところで(バッテリーが切れるように)魂としての力が尽き、それ以上人の姿かたちをとっていられなくなったのだろうか。人の形態をとるには、つまり幽霊としてこの世界に現れるには、かなりのエネルギーが必要とされると彼は語っていたから。

 でも何があったにせよ、今の私にできるのは、彼の残してくれたストーブの火を眺めながら、何かが起こるのをただ待ち受けることだけだった。だから私は待った。そして時折、深い沈黙に句読点を打つように、あるいは声を発する能力がまだ自分に残っていることを確かめるように、私は空間に向かって小さく叫んだ。

「子易さん」

 しかし返答はなかった。返答に近い何らかの気配のようなものもなかった。部屋を包んだ沈黙は重く濃密で、身じろぎひとつしなかった。まるで真冬の上空に重く腰を据えた分厚い雪雲のように。私はストーブの扉を開け、新しい薪を足した。

 ストーブの前に立ったまま、コーヒーショップの女性店主のことを考えた(そういえば彼女の名前はなんというのだろう。名前を聞くことをどうして思いつかなかったのだろう。またどうして私は自分の名前を相手に教えなかったのか。名前みたいなものはさしあたって、とくに大事な問題ではないのだろうか)。彼女のほっそりとした体つき、まっすぐな黒髪、化粧気の薄い顔、ときどき皮肉っぽく曲げられるふっくらとした唇。彼女には私の心を惹きつける何か特別なところがあるのだろうか? 美人というわけでもないし、それほど年若くもない(もちろん私よりは十歳ほど若いけれど)。

 しかし何はともあれ彼女の姿は私の心の隅の方に(しかし視線が間違いなく届くところに)腰を据えたまま、そこから動こうとはしなかった。彼女は何かを、あるいは誰かを、私に思い出させるのだろうか? しかしどれだけ考えても、彼女の姿かたちは他の何にも、誰にも結びつかなかった。彼女はあくまで彼女自身、独自の存在として私の中に静かに位置を定めていた。

 自分自身に対する率直な質問──私は性的な欲望を彼女に対して抱いているのだろうか?

 抱いている、と私は思う。私は健康な(たぶん健康なのだと推測する)性欲を有する一人の男性として、彼女に対して性的な欲望を抱いている。それはまず間違いのないところだ。しかしその性欲は今のところ、コントロールしきれないほど強力なものではないし、その発露が招くかもしれない実際的な諸問題を忘れさせるほど確信に満ちたものでもない。可能性が形態を微妙に変化させながら、私の心のドアを穏当にノックしている、というあたりに留まっている。私の耳はそのノックの音を聞き取る。聞き覚えのある音だ。

 もっと要点を絞ろう。

 私は彼女に恋をしているのか?

 答えはおそらくノーだ。思うに、私はそのコーヒーショップの女性に恋してはいない。自然な好意を抱いてはいるけれど、それは恋とは違う。恋をするための私の心身の機能は──相手に自分をそっくり差し出したいと願う総合的衝動のようなものは──遥か昔に燃え尽きてしまったように思える。いつか子易さんは私にこのようなことを言った。

「あなたは人生のもっとも初期の段階において、あなたにとって最良の相手と巡り会われたのです。巡り会ってしまった、と申すべきなのでしょうか」

 それはおそらく事実だ。これまでの人生における幾度かの苦い経験が、私にそのことを明瞭に教示してくれた。叩き込んでくれた、というべきか。そう、私は身をもって学んだのだ……少なからぬ授業料を支払って。できればもうそのような経験は二度としたくない。心ならずも他人を傷つけ、その結果自分をも傷つけるような経験は。

 それでもやはり彼女と寝るところを想像しないわけにはいかなかった。もし私が本気で望めば、彼女はその求めに応えてくれるかもしれない──そういう気がした。そして私はその様子を想像した。彼女の服を脱がせて、ベッドの中で裸で抱き合うところを。彼女の裸の身体を想像し、その身体を抱く感触を想像した。十七歳のとき、これから会いに行く少女の衣服を脱がせていく様子を、電車の中で想像したときと同じように。そしてそのときと同じような罪悪感を私は抱くことになった。過去における自分の性欲と、今現在の自分の性欲とを、うまくより分けることができなかった。そのふたつは私の中でもつれ合い、ひとつに絡み合っていた。そのことが私を少なからず混乱させた。


 それからぼくは、きみの一対の胸の膨らみのことを考え、きみのスカートの中について考える。そこにあるもののことを想像する。ぼくの指はきみの白いブラウスのボタンをひとつずつ不器用に外し、きみのつけている(であろう)白い下着の背中のフックをやはり不器用に外す。ぼくの手はそろそろときみのスカートの中に伸びていく。きみの柔らかな太ももの内側に手を触れ、それから……


 私は目を閉じ、その再現されたイメージを頭の中から消し去ろうと努めた。あるいは、どこか目に見えないところに押しやろうとした。しかしそのイメージは簡単に消えてはくれなかった。

 違う。そうじゃない。それは今現在のことではない。それはこの場所での出来事ではない。既に失われ、どこかに消えてしまったものごとなのだ。私は違う成り立ちのイメージをふたつ、勝手に重ね合わせているだけだ。それは正しいこととは言えない。

 でもほんとうにそうだろうか、と私は思う。それはほんとうに正しくないことなのだろうか?


 腕時計の針は十二時少し前を指していた。私は無人の図書館の奥にある、正方形の半地下の部屋で、薪ストーブの前に立ち、身体を温めながら物思いに耽っていた。薪の燃え崩れるがらりという音が部屋に響いた。私はストーブの炎に目をやり、それからもう一度部屋の中を見渡した。

「お待たせをいたしました」と子易さんが言った。

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