「お待たせをいたしました」と子易さんが言った。
私は物思いからはっと目覚め、あわててあたりを見回した。子易さんは暗い片隅に置かれた、古い木製の椅子の上に腰掛けていた。紺色のベレー帽をかぶり、格子柄のスカートをはき、ツイードの上着を着ていた。そして白い薄手のテニスシューズ。いつもの格好だ。コートは着ていない。
「もっと早くここに参るはずだったのですが、何かと妨げがあり、お待たせしてしまった」
私はうまく言葉を見つけることができず、ただ黙って肯いた。ストーブに背中を向け、そこに立ったまま子易さんの顔を見ていた。彼の顔はいつもより白っぽく、どこかしら寂しげな表情を浮かべていた。
「かなり長いあいだ、この図書館にもうかがえなかった」と子易さんは言った。「あなたにもお目にかかることができなかった。こうして人の姿をとることが、だんだんうまくできなくなってきたのです。この地上を離れる時期が次第に近づいてきたのかもしれません」
そう言われてみると、子易さんの姿はいつもに比べていくぶん小さくなり、また質感を欠いているように見えた。じっと見ていると、向こう側が透けて見えそうに思えるほどだった。映画のフェイドアウトの最初の段階みたいな感じだ。
「お久しぶりです」と私は言った。「子易さんにお目にかかれないと寂しいです」
子易さんは微かな笑みを口元に浮かべた。表情の動きは弱々しい。
「そう言っていただけるのはなにより嬉しいのですが、わたくしは所詮、既に死んでしまった人間です。こうしてあなたにお目にかかれるのは、あくまでいっときの出来事に過ぎません。猶予期間のようなものを、特別に与えてもらっているだけのことです」
特別に与えてもらっている、と私は彼の言葉を頭の中で反復した。いったい誰に? でもそんなことを尋ねていたら、話が長くなってしまう。私には話さなくてはならない大事なことがあった。
私は言った。「あなたがいらっしゃらない間に、いくつかのことが起こりました」
「はい。わたくしもおおよそのところは理解しておるつもりでありますが、ああ、やはりあなたの口から説明していただいた方がよいかもしれません。誤解があるといけませんので」
私はイエロー・サブマリンのパーカを着た少年と言葉を交わしたことを話した。そして少年がこの世界を離れ、「壁に囲まれた街」に移りたいと思っていることを。子易さんは腕組みをして、私の話を黙って聞いていた。相づちを打ったりもしなかった。時折ほんの小さく肯くだけだ。その目は終始閉じられ、眠っているのではないかと思ったほどだった。しかしもちろん眠ってはいなかった。余計なエネルギーを使わないように動作を控えているだけだ。
私が話すべきことを話し終えると、子易さんは腕組みをしたまま、それについてしばらく考えを巡らせていた。あるいは考えを巡らせているように見えた。その身体は微動だにしなかった。まったく息をしていないようにも見えた。しかし考えてみれば、彼は既に死んでしまった人間なのだ。息をしなくても不思議はないのかもしれない。
あるいは人は二度、死を迎えるものなのかもしれない。地上における仮初めの死と、ほんものの魂の死だ。しかしもちろん、誰もがそういう死に方をするわけでもあるまい。子易さんはきっと特殊なケースなのだろう。
「あの少年が、あなたとそうやって話ができたというのは、喜ばしいことです」と子易さんはようやく口を開いて言った。「あの子は誰とでも話ができるというものではありませんから。というか、ほとんど誰ともしゃべらんのです」
「でも会話といっても、ほとんどが無言のジェスチャーと筆談でした。実際に声を出したのはほんのときどきです」
「それでよろしいのです。わたくしとの会話もおおよそそのようなものでした。それがあの子の普通の話し方なのです。そういう切れ切れの意思の疎通が、彼には自然なものなのです。少なくともこの世界においては」
ストーブの中で猫がうなるようなふうっという音が聞こえ、振り向いてそちらに目をやった。しかし薪の状態に変わりはなかった。おそらく給気口で空気が舞うか何かしたのだろう。私は子易さんに目を戻した。彼は同じ姿勢のまま薄く目を開けていた。
「彼は壁に囲まれた街に移り住むことを強く望んでいます」と私は言った。「私がかつて暮らしていた街にです。しかしそこに入るには、こちらの世界における自分を消し去る必要があります。影を失った人間は、結果的にこちらの世界における存在を失わなくてはなりませんから」
子易さんは肯いた。「はい、そのことは承知しております。あなたはいろいろあった末に、こちらの世界に戻ってこられ、影を回復された。しかしあの子はあちらの世界にそっくり移行することを望んでいる」
「そのようです」
「おそらくはあなたもご存じのとおり、この世界はあの子には向いておらんのです。ここにはあの子のための場所はないようです」
「あの子がこの世界に向いていないだろうことは、私にもある程度理解できます。しかし、だからといってあちらの世界に移る手助けをしてやっていいものでしょうか? ひょっとしてあの子は、あとになってから、そこにやって来たことを後悔するかもしれません。こんなところに来なければよかったと思うかもしれません。なんといってもまだ十六歳ですし、今ここで人生の進路を最終的に決定するだけの判断力を持ち合わせているかどうか、それも疑問です」
子易さんはゆっくり一度肯いた。私の言いたいことはよくわかる、という風に。
私は言った。「あの街は一度中に入ると、そこから出るのはほぼ不可能なところです。高い壁にまわりを囲まれ、屈強な門衛が厳しく出入りの管理をしています。そしてその街で暮らしている人々は、満ち足りた生活を送っているとはいえません。冬は寒く長く、多くの獣たちが飢えと寒さのために死んでいきます。そこは決して楽園ではないのです」
「でもあなたは、そちらの世界に居住することを選ばれた。そして高い壁に囲まれた街の中で、あなたの心が従来求めていたはずの生活を送られることになった。あなたの影に街から出て行こうと誘われても、単身あとに残ることを選ばれた。そうですね? 結果はともかくとして」
私はゆっくり息を吸い込み、そして吐いた。深い海の底から浮上してきた人のように。
「そのとおりです。しかし私自身、自分の決断が正しかったかどうか、今でもなお判断に苦しんでいます。果たしてその街に留まるべきだったのか、それともこちらに戻るべきだったのか。結果的には下した決断とは関係なく、このようにこちらにはじき返されてしまったわけですが……。ですから、あの少年がその街に入ることができたとして、果たしてそこでの生活に溶け込めるかどうか、予測がつかないのです」
今では子易さんは目をしっかりと見開き、天井の片隅を見つめていた。そこに何か特別なものが潜んでいるかのように。私もその場所に目をやった。しかし特別なものは何も見えなかった。ただ天井の片隅があるだけだ。
「そうしてあなたは判断に苦しんでおられる」と子易さんは言った。
「そうです。どうしたものか、判断に苦しんでいます。彼の願望をかなえてやっていいものかどうか。あの少年を、というか一人の人間存在を、こちらの世界から消し去ってしまう手助けをしていいものかどうか」
「よろしいですか」、子易さんは言葉を強調するように指を一本立てて言った。「よろしいですか、ああ、あなたは判断に苦しむ必要などありません。なぜならば、あなたには判断を下す必要もないからです」
「しかしあの子は私に、その街まで導いてもらいたいと求めています。彼はそこへの行き方を知らないからです」
「しかしあなたにはそれができない。なぜならば、あなたはその街に行ったことはあるけれど、行き方を知っているわけではないから」
「そのとおりです」
「ですから、あなたはなにも判断に苦しむ必要などないのです」と子易さんは静かな声で繰り返した。「つまり、こういうことです。あなたは自分の見る夢を自分で選ぶことができますか?」
「できないと思います」
「ならば、あなたは誰か他の人のために、その人が見る夢を選んであげることができますか?」
「できないと思います」
「それと同じことなのです」
私は言った。「つまりあなたがおっしゃりたいのは、あの壁に囲まれた街は、私が夢に見たものに過ぎなかった、ということなのですか」
「いえいえ、そうではありません。わたくしが申し上げているのは、あくまで比喩の領域においてのことです。壁に囲まれた街は間違いなく存在しております。しかしそこに行くための定まったルートがあるわけではない、ということを言いたかったのです。そこに達する道筋は人によってそれぞれに異なっております。ですから、もしあなたがそうしようと決めたところで、あなたには彼をそこまで手を引いて案内して行くことはできません。あの子は自分の力で、自分自身のルートを見いださなくてはならんのです」
「つまり判断に苦しむも何も私には、あの少年がその街に移行するための具体的な手助けをすることはできない。そういうことですか?」
「そのとおりです」と子易さんは言った。「彼はその街に行く道筋を自分で見いだしていくことでしょう。それにはおそらくあなたの助力が必要となりますが、それがどのような助力なのか、それも彼自身が自らの力で見いだすはずです。あなたが判断を下す必要はありません」
私は子易さんが言ったことについて私なりに考えを巡らせてみたが、それが何を意味するのか十分理解はできなかった。論理の順序がうまく見えない。
子易さんは続けた。
「よろしいですか、あなたは既にじゅうぶんに彼の手助けをなさっておられるのです。なぜならば、あなたはあの少年の意識の中に、その『高い壁に囲まれた街』を打ち建てられたのですから。その街は今では彼の中に生き生きと根付いております。この世界よりも遥かに生き生きと」
私は言った。「つまり、私の中にあったその街の記憶が、彼の意識にそのまま移されたということなのでしょうか? 立体的に転写されるみたいに」
「はい、彼には生まれつき、そういう正確無比な転写能力が具わっているのです。このわたくしも、ああ、及ばずながらいくらかその手助けのようなことをしたかもしれませんが」
「でもそれは、そっくりそのままの転写というのではないはずです。なぜならその街に関する私の知識は完全なものではないし、また私の記憶は正確なものとは言えないから」
子易さんは肯いた。「はい、彼の中に打ち建てられたその街は、あなたが実際に暮らしておられた街とは、いろんなところが少しずつ異なっているかもしれません。成り立ちの基本は同じですが、細かい部分は彼のための街として作り直されているはずです。そのための街でありますから」
そうかもしれない。考えてみれば、私がそこに暮らしているときから既に、街を囲む壁は刻々とその形状を変化させていたのだ。まるで臓器の内壁のように。
子易さんはしばらく間を置いた。そして言った。
「ですからいずれにせよ、ああ、彼がどちら側の世界を選ぶかについて、あなたは思い悩む必要はないのです。あの子はあの子自身の判断で、生き方を選び取っていきます。ああ見えて芯の強い子です。自分にふさわしい世界で、たしかに力強く生き延びていくことでしょう。そしてあなたは、あなたの選び取られた世界で、あなたの選んだ人生を生きていけばよろしいのです」
子易さんはもう一度胸の前で腕組みをして、私の顔をまっすぐ見た。
「あなたは既にあの子のために十分良いことをなすった。彼に新しい世界の可能性を与えたのです。それは彼のために喜ばしいことであったと、わたくしは確信しております。それはなんと申しますか、継承のようなものであるかもしれません。ええ、そうです、あなたがこの図書館でわたくしの継承をなすったのと、ちょうど同じようにです」
子易さんの述べたことを、自分なりに呑み込むのにいくらか時間が必要だった。継承? イエロー・サブマリンの少年がいったい私の何を継承するのだろう?
子易さんは腕組みしていた両腕をほどき、膝の上に戻して言った。
「ああ、そろそろおいとましなくてはなりません。残された時間が尽きようとしております。わたくしにはわたくしのための場所がありまして、そちらに移らねばなりません。ですから、こうしてあなたとお会いする機会ももうないでしょう。おそらく」
私が見ている前で子易さんの姿は少しずつ薄れ、やがて完全に消えていった。煙が空中に吸い込まれるように。あとには古い木製の椅子だけが残った。私は長い間その椅子を見つめていた。子易さんがもう一度姿を現して、何か言い残した言葉を投げかけてくれるのではないかと期待して。しかしどれだけ待っても、彼はもう姿を現さなかった。古い木製の椅子が沈黙の中に空しく置かれているだけだった。
彼は間違いなく永遠に消えてしまったのだと私は悟った。この世界から最終的に去っていったのだ。それは何より切なく悲しいことだった。おそらく、どんなほかの生きている人間が死んでしまったときよりも。
ストーブがまた猫のうなり声のような音を立てた。外では風が舞っているのだ。私はストーブの火が消えたのを見届け、図書館を出て家に帰った。