街とその不確かな壁

村上春樹



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 その青年が差し出した名刺には、勤め先の弁護士事務所の住所が印刷されていた。三人の弁護士の名前を並べた名称を持つ事務所だ。「平尾・田久保・柳原 法律事務所」。でもその中には彼の名前は含まれていない。

「弁護士とはいっても、まだほんの下っ端です。見習いというか、使い走り、でっのようなものです」、青年はまっすぐ私の目を見ながらにこやかにそう説明した。それは日頃から口にし慣れている言い回しに聞こえた。だから私の耳にはとくに謙遜のようには聞こえなかった。

 私はその青年と、もう一人のより若い青年に応接室の椅子を勧めた。彼らはそこにとても密やかに腰を下ろした。まるで椅子の強度を信用していないみたいに。

「隣にいるのは弟です」と青年はもう一人を紹介した。「東京の大学で医学を学んでいます。そろそろ実習が始まって忙しいところなのですが」

「よろしくお願いします」と弟は丁寧に深く頭を下げて言った。とてもしつけがいい。

 兄はどちらかといえば小柄で、弟はどちらかといえばがっしりした体格だった。しかし顔立ちはよく似ている。一目見て兄弟だと推察できる(二人は特徴的な耳のかたちを父親から受け継いでいた)。どちらも目鼻立ちが涼しげに整っており、見るからに育ちが良さそうだ。身なりも都会風に洗練されていた。兄は濃紺の細身のスーツに白いシャツ、緑と紺のストライプのネクタイ、黒いウールのコート。弟はぴったりしたグレーのタートルネック・セーターに、ベージュのチノパンツ、紺のピーコートという格好だった。どちらの髪もちょうど良い長さにカットされ、ワックスを使っていかにも自然に整えられている。

 コーヒーショップの彼女は「見かけの良い二人の若い男性」と表現していたが、まさに的確な形容だった。どちらも見るからにこぎれいで、賢そうで、でも偉そうなところはなく、初対面の相手にまず間違いなく好印象を与える。二人並べて、そのまま男性用化粧水の雑誌広告にでも使えそうだ。

「いつもM**がお世話になっていたようです」と長兄がまず口を開いた。

「ええ、M**くんは毎日のようにここに姿を見せて、本を熱心に読んでいました」と私は言った。「急に姿を消してしまったということで、ここで働いている私たちもみんな心配しています。一刻も早く行方がわかるといいのですが」

「残された一家全員で懸命に捜索にあたっています」と兄は言った。「写真を入れたビラを作って、この何日かあちこちで配っています。でも今のところ、手がかりはまったくつかめていません。弟を見かけたという人がひとりも出てこないのです。これは不思議なことです。周りを山に囲まれたこんな狭い盆地の町ですし、現金もほとんど持ち合わせていないみたいだし、弟はそれほど遠くには行っていないはずです。もし家出みたいなことをしたのなら、間違いなく誰かにその姿を目撃されているはずなんですが」

「たしかにそれは不思議なことですね」と私は同意した。

「まるで神隠しにあったみたいだと父は言っています」と兄は言った。

「神隠し」と私は言った。

「ええ、この地方では過去において、神隠しみたいなことがしばしば起こったのだそうです。主に小さな子供たちが、ある日突然わけもなく忽然と姿を消してしまうのです。そしてそれっきり戻ってきません。そういう話が言い伝えとしていくつか残っています。ひょっとして、それではないだろうかと父は言い出しています。そうとでも考える以外に、うまい説明がつかないものですから」

「もし仮にそれが神隠しだとして」と私は言った。「姿を消した子供たちを取り戻すための手立てのようなものは、何かあるのですか?」

「父親は知り合いの神社の神主に頼んで、毎日とうをしてもらっています。子供を元に戻してもらうように、神様に祈っているのです。もちろん私はそんなことはただの言い伝えだと思っていますが、父親としてはやはり何かにすがりたいのでしょう。ほかに頼るべきものもないわけですから。まさに神頼みということですが」

「おそらくご存じだとは思いますが、弟は、M**は、いわゆる普通の子供ではありません」と医学生の弟が口を開いた。「通常の社会生活を送る能力にはいくらか不足がありますが、その代償にとでもいいますか、とくべつな能力を生まれつき与えられています。普通の人間ではちょっと考えられないような能力です。あるいはそのぶん神の領域に近いところにいると言っていいかもしれない。それは神に愛されることを意味するかもしれないし、あるいは逆にどこかで神の禁忌に触れる可能性を意味するかもしれません」

 私は言った。「M**くんは、普通の人に比べて、スピリチュアルな領域により近いところにいるということですか」

「ええ、ひょっとしてそういう考え方もできるんじゃないかと僕は思うのです」と弟は言った。「その意味では、父の言う『神隠し』というのもあながち的外れではないかもしれない。もちろん、実際にそういうことがあるかどうかは別にしてですが」

 兄はちらりと弟を見たが、とくに意見は述べなかった。その問題に関しては、兄弟の考え方に少なからず相違があるように見えた。

 兄は言った。「そういう話は仮説としては興味深くはありますが、ここではとりあえずもう少し実際的になる必要があると思います」

 現役の弁護士という立場からすればそのとおりだろう。たとえば法廷で「神隠し」みたいな見解を持ち出すわけにはいかない。そんなことを論理立てて証明するのは不可能なのだから。

 彼は続けた。「私たちはどのようなことでもいいから、具体的な手がかりを求めています。このどうにも説明のつかない弟の失踪事件の謎を解き明かしてくれる、何らかの示唆を。おそらく時間が経過すればするほど、捜索は困難になっていくはずです。そんなわけで、あなたにお話をうかがえればと思ったのです。お忙しいところをこのように勝手に押しかけて、ご迷惑だとは思うのですが」

「時間ならいくらでも差し上げられます。もしお役に立てるものなら、どんなことでも喜んで協力します」と私は言った。

 兄は何度か肯き、ネクタイの結び目に手をやった。それがまだ正しい場所にあることを確認するみたいに。そして言った。

「M**は聞くところによれば、どうやらあなたに個人的な親しみを感じていたようですね」

 私は僅かに首を傾げた。「それを親しみと呼んでいいかどうか。彼とそれほど親密に話をしていたわけではありませんから。お父様にも申し上げたのですが、ほとんど筆談と身振りで意思を伝えてくれたという程度のことです」

「いや、それだけでも大したことなのです」と弟が隣から口を挟んだ。「M**は僕らにも──ひとつ屋根の下で一緒に育ってきた兄弟に対しても──そういうことはほとんどしてくれませんでした。なにか話しかけてもまずまともな返事は返ってきません。父親に対してもそれは同じです。母親とも、生活に必要な最低限のやりとりはしますが、それ以上の会話は望めません」

 兄は肯いた。「そのとおりです。彼の方から我々に何かを話しかけてくるというようなことは、まずなかった。いつも自分だけの世界にぴたりと閉じこもっているんです。海の底の牡蠣みたいに。しかしあなたにはM**の方から進んで話しかけてきたわけですね」

「ええ、そうだと思います」と私は言った。「彼の方から私に話しかけてきました」

「そしてあなたの姿を見かけて、駅前の商店街にあるコーヒーショップにまで入っていったということです。弟のような人間にとって、それはまずあり得ないことです」

「どうやらそのようですね」

 兄弟はしばらく口をつぐんでいた。私も黙って話の続きを待った。

 兄が口を開いた。「失礼なことをうかがうようですが、あなたのいったいどこに、どういうところに、M**はそれほど興味を惹かれたのでしょう? 弟はたしかに子易さんには親しんでいました。よく話もしていたようです。しかし子易さんは小さい頃からM**のことをよくご存じでしたし、あの子に目をかけ、何かとかわいがってくれました。ですから彼になつくのはそれなりに理解できます。何か気持ちが通じ合うところがあったのでしょう。でもあなたは、子易さんが亡くなったあと東京から移ってこられて、図書館長職を新しく継がれたばかりです。そんなあなたのどこに弟は心を惹かれたのでしょうか」

「お父様にも先日お話ししたのですが、私はある人に架空の街の話をし、それを彼がたまたま耳にしたようです」

「ええ、おおよそのことは父から聞きました。M**はその架空の街の話に強い興味を持ち、その街の地図を描き起こしたということですね」

「ええ、そのとおりです」

 弟が質問した。「それはつまり、あなたの想像の中で生み出された空想の街なのですね?」

「そのとおりです。私がまだ若い頃、想像の中で作り上げた、実際には存在しない世界です」と私は答えた。

「その地図はお持ちですか?」

「いいえ、今ここにはありません。M**くんが持っていきました」、それは噓だ。その地図は私の家の机の抽斗にしまってある。でもなぜか私は彼らにその地図を見せる気持ちにはなれなかった。

 兄弟は顔を見合わせた。

「もしよろしければ、その架空の街の話を我々にもしていただけませんか」と兄が言った。

 医学生の弟が隣から言い添えた。「失踪前のM**がどんなことに強く興味を惹かれていたのか、いちおう頭に入れておきたいのです」


 私は高い壁に囲まれた街の概要を手短に二人に語った。彼らは真剣に弟の行方を探し求めている。断るわけにはいかない。

 そこにある風景を、その街のおおよその成り立ちを、あくまで空想上のものとして私は二人に語った(もちろん何から何まですべてを語ったわけではない。図書館の世話係の少女については簡単に触れただけだし、影と引き離され、眼を傷つけられた話も、不気味な溜まりの話も省いた。二人に不吉な印象を与えたくなかったから)。兄弟は私の話を黙って熱心に聞いていたが、途中でいくつか質問をした。どれも簡潔で適切な質問だった。それぞれに勘が鋭く、頭の回転の速い兄弟であるようだった。父親を相手にしたときのように簡単にはいかない。私が話し終えると、しばらく密度の高い沈黙が続いた。最初に口を開いたのは弟の方だった。

「僕が思うに、M**はおそらくその街に自ら行くことを望んだのでしょう。お話をうかがっていて、そういう気がしました。あの子は何かひとつに焦点を定めれば、普通では考えられないほど強烈な集中力を発揮します。そして彼はそのあなたの街のありように強く心を惹かれていた」

 再び沈黙が降りた。どこという行き場を持たない重く淀んだ沈黙だった。私は弟に向かって慎重に言葉を選んで言った。

「でもそれは、なんといっても私の頭の中でこしらえられた架空の街です。現実には存在しません。M**くんがどれほど強く望んだところで、そこに行けるわけはない」

 医学生の弟が言った。「でもM**は実際に姿を消してしまいました。ひどく寒い冬の夜にパジャマ姿で、ほとんど一銭も持たずに。その姿の消し方があまりにも非現実的なので、非現実的な仮定もいろいろ頭に浮かんでしまうのです。あくまで可能性として」

「警察はどう言っているのですか?」と私は尋ねた。とりあえず話を逸らすために。

 弁護士の兄が言った。「M**はたぶんみんなが寝静まっている夜のあいだに服を着込んで、いくらかの現金を手に家を出て、何らかの手段を見つけて、たとえばヒッチハイクをするとかして、町を出て行ったのだろうと、警察は考えています。十代の男の子のよくある家出だろうと。服もなくなっていないし、現金も持っているはずはないと母は断言していますが、警察は母の言うことはあまり信用していないようです。母は現在、なんといいますか、ショックのためにいささかヒステリー状態にありますので」

「手持ちの現金が尽きたら連絡をしてくるか、あるいはそのうちに、何ごともなかったかのようにふらりと家に帰ってくるでしょうと、警察の人は言っています」と弟は言った。

「まあ、それが世間の一般的な考え方なのでしょうが」と兄は言ってため息をついた。

「でも僕にはそうは思えません」と弟が言った。「母は細部に厳密な人間です。取り乱しやすい性格ではありますが、服の数とか、現金の有無とか、その手の実際的なことにかけては人並み外れて正確です。たとえ多少頭が混乱していても、そういう事柄はまず間違えません」

 弁護士の兄が言った。「家の内側から鍵がすっかり閉まっていたことについても、きっとどこかが開いていたんだろうと、警察は考えているようです。いわゆる合理的な解釈でいくと、そうなってしまいます。またM**がちょっと変わった、普通ではない子供だということは、町の人たちはみんな知っています。そういう子供は予測のつかないことをするものだと人は考えます。父はこの町では名前を知られた人間なので、警察もいちおう丁寧に応対してくれますが、それ以上のことはしてくれません」

「何ごともなかったようにふらりと帰ってきてくれれば、それに勝ることはないのでしょうが」と私は言った。

 兄の方が言った。「ええ、両親もそのように言っています。しかし私たちとしては、ただおとなしく座ってM**の帰りを待っているわけにはいきません。社会的適応力みたいなものを持ち合わせていない子です。今頃どこでどうしているのかと思うと、心配でなりません」

「壁に囲まれた架空の街の話に戻りますが」と弟が口を挟んだ。「弟は、そのあなたの街のどのようなところにいちばん興味を抱いたと思われますか?」

 私は答えに窮した。いったいどのように答えればいいのだろう?

「それは私にもわかりません。そういうことは、彼は何も語りませんでしたから。ただきわめて真剣にその街の地図作りに没頭していただけです。でも私の個人的な感想を言わせていただければ、M**くんがその街に心を惹かれたのは、たぶんそこではあなたがたのおっしゃるところの、社会的適応力みたいなものが必要とされなかったからではないでしょうか。彼がその街でやるべきことといえば、図書館に通って特殊な書物を読むことだけです。それは考えてみれば、彼がこの町で、この図書館で日々おこなっていたのと基本的に同じ作業です。それ以外には何も求められていません。そしてその街では、その書物を読むことが重要な意味を持っています」

「特殊な書物とはいったいどんなものなのですか?」と弁護士の兄が尋ねた。当然出てくる疑問だ。「なぜそれを読むことが、街にとって重要な意味を持っているのですか?」

 私はため息をついた。そしてどうしてかはわからないのだが、図書館の庭をゆっくりと歩いて横切っていく瘦せた雌猫の姿をふと思い浮かべた。それからその猫と五匹の子猫たちの様子を、飽きることなくいつまでも眺めていたイエロー・サブマリンの少年の姿を思い浮かべた。それは遥か昔に起こった出来事のように感じられたが。

 私は言った。「それがどういうものなのか、それを読むことがどんな意味を持っているのか、私自身にもうまく説明できません。謎の書物としか言えないのです」

 弟が尋ねた。「でもそのようなシチュエーションは、すべてあなたの想像の中でつくられたのですね?」

「ええ、そのとおりです」と私は言った。「そうだと思います。しかしそこにある多くの事柄は私にも、論理立てて説明することができないのです。それらはずっと以前、十代の私の中で、いわば自然に、勝手に姿かたちをとって浮かび上がってきたものですから」

 正確に言えば、その街は十七歳の私と十六歳の少女が、二人で力を合わせて起ち上げたものだ。私一人でこしらえたものではない。しかしそんな話をここで持ち出すわけにはいかない。

 兄弟はそれぞれに、私の語ったことについてしばらく考え込んでいた。

 やがて弟が口を開いた。「ひとつ個人的な仮説を申し上げていいでしょうか?」

「もちろん、どうぞ。どんなことでも」

「僕は思うのですが、街を囲む壁とはおそらく、あなたという人間を作り上げている意識のことです。だからこそその壁はあなたの意思とは無縁に、自由にその姿かたちを変化させることができるのです。人の意識は氷山と同じで、水面に顔を出しているのはごく一部に過ぎません。大部分は目には見えない暗いところに沈んで隠されています」

 私は尋ねた。「あなたは医学を学んでいると言われましたが、どんなことを専門とされているのですか?」

「いちおう外科医になるつもりで、その勉強をしています。できれば脳外科を専門にしたいと思っています。しかしそれと同時に精神医学にも興味を持っていまして、それに関連する講座もいくつかとっています。脳外科とは重なり合う分野もありますから」

「なるほど」と私は言った。「あなたがそういう方面を目指そうと思われたのは、弟のM**くんのことも影響しているのでしょうか?」

「ええ、そうですね。ある程度関係していると思います。それがすべてというわけではありませんが」

 弁護士の兄が言った。「言うまでもないことですが、私たちは弟がその架空の街に実際に足を踏み入れたとか、そんな風に考えているのではありません。そういうのはサイエンス・フィクションの世界の話です。現実に起こるわけはない。ですからそのことであなたを責めているわけでも、責任を追及しているわけでもありません。しかし率直に申し上げまして、あなたがM**にお話しになったその架空の街が、彼の今回の失踪の何らかのきっかけになっているような気がしてならないのです」

「きっかけと言いますと、たとえばどのようなきっかけなのでしょう?」

「たとえばM**はその街に行くための通路のようなものを見つけたと、思い込んだかもしれません。そのとき彼は高熱を出していましたから。そして寝床から起き上がり、その通路を目指して家を出て行った。施錠されたままの家の中からどのようにして出て行ったか具体的にはわかりませんが、とにかく外に出て行った。パジャマ一枚の格好で。でももちろんそんな通路はどこにも見つかりません。そしてそれはひどく冷え込んだ夜です……」

 弟が話を受け継いだ。「そしてそのまま、近くの山中に入っていって、そこで寒さのために意識を失ってしまったのかもしれません。それが我々の考えついた、もっともありそうな仮説です」

「それで、山の中を探してみられたのですか?」と私は質問した。

「ええ、二人でできるだけ歩き回って探してみました。でも隅々まで隈なく捜索するというわけにはいきません。なにしろこの町は四方をぐるりと山に囲まれていますから」と弟は言った。

 兄が言った。「本当は多くの人を集めて、山狩りのようなことをするのが望ましいのですが、今の段階ではむずかしそうです」


 弁護士の兄が言った。「あと数日、我々はこの町に滞在して、弟の行方を探ってみるつもりです。できる限りのことはやってみます。でもそれ以上ここに留まるのは難しいかもしれません。心残りではあるけれど、二人ともそろそろ東京に戻って、仕事や勉学を続けなくてはなりませんから」

 私は肯いた。一週間東京を離れて、こちらに来るだけでも、彼らはかなりの現実的な犠牲を払っているはずだ。人々はそれぞれの生活に追われて忙しいのだ。弟はポケットから手帳を出して、そこにボールペンで何かを書き付け、ページを破って私に手渡した。

「これが僕の携帯電話の番号です。どんな細かいことでもかまいません。その壁に囲まれた街に関して何か思い出されたことがあったら、連絡をいただけますでしょうか」

「わかりました。そうします」

 彼はどうしようか少し迷ってから、真剣な声で私に打ち明けるように言った。「比喩的にか、象徴的にか、暗示的にか、そこはよくわかりませんが、M**は何かしらの通路を見つけて、その街に入り込んでしまったように、僕には思えてならないのです。言うなれば水面下深くにある、無意識の暗い領域に」

 私はもちろん肯定も否定もしなかった。ただ黙って彼の顔を見ていた。

「そこまで行けば、あるいは弟は見つかるかもしれません。でも僕らがそこに行くことは現実的にできない」と弟は言った。

 もし仮にそこで見つかったとしても、イエロー・サブマリンの少年は、こちらの世界に戻ることをおそらく望むまい。でももちろん兄たちに向かってそんなことは口にできない。

 兄弟は私に丁寧に礼を言って、静かに部屋を出て行った。その礼儀正しく、見るからに聡明そうな青年たちがいなくなると、私は窓際に行って、誰もいない庭を長いあいだ眺めた。鳥たちが葉を落とした樹木の枝にとまり、しばらくそこでさえずり、何かを求めてまたどこかに去っていった。

「比喩的にか、象徴的にか、暗示的にか、そこはよくわかりませんが」と医学生の弟は言った。

 いや、それは比喩でも象徴でもなく暗示でもなく、揺らぐことのない現実なのかもしれない。私は現実のイエロー・サブマリンの少年が、その現実の街の通りを歩いている様子を思い浮かべた。そして私はしょうけいしないわけにはいかなかった。少年のことを、そしてその街のことを。

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