コーヒーショップのドアを押して中に入ったとき、店内には二人の客がいた。子供を小学校か幼稚園まで送り出したあと、腰を据えて話し込んでいるらしい、三十代半ばくらいの女性たちだった。彼女たちは窓際の小さなテーブルをはさんで座り、真剣な面持ちでひそひそと言葉を交わしていた。
カウンターの席に座って、いつものようにブラック・コーヒーをマグで注文し、ブルーベリー・マフィンをひとつ食べた。マフィンはまだ微かに温かく、しっとりと柔らかかった。そのようにしてコーヒーは私の血となり、マフィンは私の肉となった。なにより貴重な栄養源だ。
彼女がカウンターの中で要領よく立ち働いている姿を眺めているのは、なかなか素敵だった。いつものように髪を後ろでぴったりと束ね、赤いギンガム・チェックのエプロンをつけていた。
「それでその兄弟たちは、まだ駅前で少年の写真を配っているのかな?」
「ええ、そうね、たぶんそうだと思う」と彼女は食器を洗いながら言った。
「でも今のところ、手がかりみたいなものは、まだ得られていないんだね」
「少年の姿を見かけた人は見つかっていない。話を聞くと、ずいぶん不思議な消え方をしたみたいね。彼が夜のあいだにどうやって一人で家から出て行ったのか、説明がつかないということだった」
「それが謎なんだ」
「もともとがかなり謎に満ちた子供であったように見受けられたけど」
私は肯いた。「不思議な能力を身につけた子供だった。普通の子供とはずいぶん違っている。この世界を、ぼくらとは違う目で見ているようなところがあった」
彼女は洗い物の手を休め、顔を上げてしばらく私の目を見ていた。
「ねえ、今日の夕方、店を閉めてからちょっとお話しできないかな? もしそんな暇があるなら、ということだけど」
「もちろん暇はある」と私は言った。日が暮れたあと、私が予定していることと言えば、FM放送のクラシック音楽番組を聴きながら本を読むくらいだ。
「じゃあ、いつものように六時に店を閉めるから、その少しあとでここに来てくれる?」
「いいよ」と私は言った。「六時少しあとにここに来るようにする」
「ありがとう」
お昼時になって店が混んできたので、私は引き上げることにした。彼女はブルーベリー・マフィンをひとつ、持ち帰り用の紙袋に入れてくれた。
帰宅すると、まず溜まっていた一週間ぶんの洗濯をした。そして洗濯機がまわっているあいだに床に掃除機をかけ、浴室をきれいに磨いた。窓ガラスを拭き、ベッドをきれいに整えた。洗濯が終わると、庭の物干しに洗濯物を干した。それから、FMラジオでアレクサンドル・ボロディンの弦楽四重奏曲を聴きながら、何枚かのシャツとシーツにアイロンをかけた。シーツにアイロンをかけるには時間がかかる。
ラジオの解説者は、当時のロシアではボロディンは音楽家としてよりは化学者として広く知られ、また尊敬もされていたと語っていた。しかし私の聴くところ、その弦楽四重奏曲には化学者らしいところはまったく感じ取れなかった。滑らかな旋律と、優しいハーモニー……そういうのがあるいは化学的な要素と言えるのかもしれないけれど。
アイロンをかけ終えると、私はトートバッグを手に買い物に出た。スーパーマーケットで必要な食品を買い込み、うちに帰って食事の下ごしらえをした。野菜を洗って仕分けし、肉と魚をラップに包み直し、冷凍するべきものは冷凍した。鶏ガラをつかってスープを作り、カボチャと人参を下茹でした。そのように家事をひとつひとつこなしながら、少しずつ普段の自分を取り戻していった。
私のクラシック音楽に関するかなり乏しい知識によれば、アレクサンドル・ボロディンはいわゆる「ロシア五人組」の一人であったはずだ。あとは誰だっけ? ムソルグスキー、それからリムスキー゠コルサコフ……そのあとが思い出せない。私は冷蔵庫の整理をしながらなんとかその名前を思い出そうと努めたが、どうしても思い出せなかった。思い出せなくてもこれといって支障はないのだが。
五時半に私は家を出た。昼間は春の到来を約束するような穏やかな陽気だったのだが、日暮れ近くになって、冬がその失地を回復したかのように、急に冷ややかな風が吹き始めていた。私はコートのポケットに手を突っ込んで駅までの道を歩いた。複雑な化学実験をしながら、美しいメロディーを頭の中で奏でているボロディンの姿を、とくに理由もなく思い浮かべながら。
六時を過ぎると客はいなくなり、彼女は片付けにかかった。首の後ろで束ねていた髪をほどき、ギンガムのエプロンを外し、白いブラウスと細身のブルージーンズという格好になった。そのほっそりとした無駄のない体つきはなかなか素敵だった。全体の均整がとれており、手脚の動きはいかにもしなやかだった。
「何か手伝おうか?」と私は尋ねた。
「ありがとう。でもいいのよ。一人でやるのに慣れているし、それほど時間はかからないから。そこに座ってゆっくりしていて」
私は言われるままカウンターのスツールに腰掛け、彼女がてきぱきと仕事をこなしていく様子を眺めていた。そこにはしかるべき作業手順が確立されているみたいだった。彼女は洗い終えた食器を拭いて戸棚にしまい、各種機械のスイッチを切り、レジスターの集計をし、最後に窓のブラインドを下ろした。
閉店後の店内はいやにしんとしていた。その静けさは必要以上に深いものだった。店は昼間開いているときとはまったく違った場所に見える。すべての作業を終えると、彼女は石鹼で丁寧に手を洗い、タオルで指を一本一本拭いて、それから私の横のスツールに腰を下ろした。
「煙草を一本吸ってもかまわないかしら?」
「もちろんかまわないけど、煙草を吸うとは知らなかった」
「一日に一本吸うだけ」と彼女は言った。「店を閉めたあと、こうしてカウンター席に座って、一本だけ吸うことにしているの。ささやかな儀式みたいに」
「この前のときは吸わなかった」
「いちおう遠慮したの。いやがるかもしれないと思って」
彼女はレジスターの中から、
「前の時みたいに、うちにきて食事をする?」
彼女は小さく首を振った。「いいえ、今日は遠慮しておく。お腹がすいていないの。あとで何か軽く口にするかもしれないけど、今はいい。もしよかったら、ここで少しお話をしない?」
「いいよ」と私は言った。
「ウィスキーは飲む?」
「ときどき気が向いたら」
「おいしいシングル・モルトが置いてあるんだけど、つきあってくれる?」
「もちろん」と私は言った。
彼女はカウンターの中に入って、頭上の棚からボウモアの12年もののボトルを取り出した。中身は半分ばかり減っている。
「素晴らしいウィスキーだ」と私は言った。
「もらいものだけど」
「これも君の儀式みたいなものの一つなのかな?」
「そういうこと」と彼女は言った。「私だけのちょっとした秘密の儀式なの。一日に一本の薄荷入り煙草と、一杯のシングル・モルト。ときどきはワインになるけど」
「独身者にはそういうささやかな儀式が必要になる。一日いちにちをうまく送り出していくために」
「あなたにもそういう儀式みたいなものはあるのかしら?」
「いくつか」と私は言った。
「たとえば?」
「アイロンをかける。スープストックを作る。腹筋を鍛える」
彼女はそれについて何か意見を述べたそうだったが、結局何も言わなかった。
「ウィスキーのことだけど」と彼女は言った。「私は氷を入れずに、少しだけ水を加えて飲む。あなたはどうする? 氷がほしければ入れるけど」
「君と同じでいい」
彼女は二つのグラスにウィスキーをおおよそダブルぶん注ぎ、ミネラル・ウォーターを少しだけ足して、マドラーで軽く混ぜた。そしてその二つのグラスをカウンターに置き、私の隣の席に戻った。私たちはグラスを軽く合わせ、それぞれ一口すすった。
「香ばしい味がする」と私は言った。
「アイラ島のウィスキーには泥炭と潮風の匂いがする、と人は言う」
「そうかもしれない。泥炭の匂いがどういうものかぼくは知らないけど」
彼女は笑った。「私も知らないけど」
「いつもこんな風にして飲んでいるの? 水を少し足すだけで」と私は尋ねた。
「ストレートで飲むときもあるし、オンザロックにするときもある。でもこうして飲むことがいちばん多いかもしれない。高価なウィスキーだし、香りが損なわれずにすむから」
「いつも一杯だけしか飲まないの?」
「ええ、いつも一杯だけ。日によって寝る前にもう一杯飲むことはあるけど、それ以上は口にしない。そうしないときりがなくなるかもしれない。一人で暮らしていると、そういうのがけっこう怖いの。まだ初心者だし」
しばらく沈黙が続いた。閉店後の店内の静けさが肩に重く感じられた。私はその沈黙を破るために彼女に尋ねた。
「ねえ、ロシア五人組のことは知ってる?」
彼女は小さく首を振った。そして静かに煙を上げていた薄荷入り煙草の火を、灰皿にゆっくりこすりつけるようにして消した。「いいえ、知らないわ。それって、なにか政治に関連したことかしら? アナーキストのグループとか」
「いや、政治には関係ない。十九世紀のロシアで活動していた五人の作曲家のことだよ」
彼女は不思議そうな目で私の顔を見た。「それで……それがどうかしたの? そのロシアの五人の作曲家が」
「どうもしない。ただ訊いてみただけだよ。五人のうち、三人は思い出せたんだけど、あと二人の名前がどうしても出てこない。昔はちゃんと覚えていたんだけどな。それが昼過ぎからなんだか気になっていたんだ」
「ロシア五人組ねえ」、彼女はそう言って楽しそうに笑った。「おかしな人」
「何かぼくに話すことがあるって、今日の昼間に言ってたような気がするけど」
「ああ、そのことね」と彼女は言って、ウィスキーのグラスを口元に運び、少しだけ傾けた。
「でも、時間が経つと、そんなことをあなたに話していいものかどうか、自分でもよくわからなくなってきた」
私もウィスキーを一口飲んだ。そしてそれが食道をつたってゆっくり降りていく感触を味わいながら、彼女が話を続けるのを黙って待った。
「こんな話をしちゃったら、あなたは私にがっかりして、もう会ってくれなくなるかもしれないから」
「どんな話なのかは知らないけれど」と私は言った。「うまく話せそうな機会があれば、思い切ってそこで話しておいた方がいいかもしれない。ぼくのこれまでのささやかな経験から言って、巡ってきた適切な機会をいったん逃してしまうと、話は余計にややこしくなることが多いみたいだから」
「でも果たして今がその適切な機会なのかしら?」
「一日の仕事を終え、細長い薄荷入り煙草に火をつけ、上等なシングル・モルトを二口ほど飲んだあとだから、たぶん適切な機会と言ってもかまわないんじゃないかな」
彼女は山の端に上ったばかりの月のような、淡い微笑みを口の脇に浮かべた。そして額にかかった前髪を指で払った。きれいな形をした細長い指だった。
「そう言われれば確かにそうね。うん、なんとかがんばって話してみることにする。あなたはそれを聞いてがっかりするかもしれない。それともぜんぜんがっかりしなくて、私は恥ずかしい思いをして、あとに一人で取り残されることになるかもしれない」
あとに一人で取り残される?
でもそれについて私はとくに意見を述べなかった。彼女が結局はその話を始めるであろうことがわかっていたから。
「こんなことこれまで誰にも話したことがないの」
天井の隅で、エアコンディショナーのサーモスタットが思いのほか大きな音を立てた。私はやはり黙っていた。
彼女は言った。「率直な質問をしていいかしら?」
「もちろん」
「あなたは私に対して、なんていうか、異性としての関心みたいなものを抱いている?」
私は肯いた。「うん、そうだね。そう言われれば、確かに抱いていると思う」
「そしてそこには性的な要素も含まれている」
「多かれ少なかれ」
彼女は少しだけ眉を寄せた。「多かれ少なかれ、というのは、具体的に言ってどれくらいのことなのかしら? もしよかったら教えてもらいたいんだけど」
「具体的に言って……、そうだな。今日の昼間、ベッドのシーツを取り替えていて、その皺を手で伸ばしながら思ったんだ。ひょっとしたら今夜、君がここに横になるかもしれないなって。あくまでひょっとしたらという可能性に過ぎなかったけれど、それはなかなか素敵な可能性だった」
彼女は手の中でウィスキーのグラスをくるくると回していた。そして言った。
「そう言ってもらえるのは、けっこう嬉しいかもしれない」
「こちらの方こそ、嬉しいと言ってもらえて、けっこう嬉しいかもしれない。ただ、しかし……と話が続いていきそうな気がなぜかするんだけど」
「しかし……」と彼女は言った。そして時間をかけて言葉を選んだ。「しかし残念なことに、そのあなたの抱く期待に、あるいはそこに存在する可能性に、私は応えられそうにないの。応えられれば、とは思うんだけど」
「ほかに誰か好きな人がいる?」
彼女は強く首を振った。「いいえ、そんな相手はいない。そういうことじゃないの」
私は黙って彼女の話の続きを待った。彼女はまだ手の中でグラスをゆっくりと回転させていた。
「問題はセックスの行為そのものにあるの」と彼女は軽くため息をついてから、諦めたように言った。「簡単に言うと私はセックスというものにうまく
「結婚していたときも?」
彼女は肯いた。「実を言うと結婚するまで、私はセックスをしたことがなかったの。つきあった男の人は何人かいたけれど、そこまではいかなかった。というか、何度か試みはしたけれどうまくいかなかったの。つまり、あまりにも苦痛が大きくて。でも結婚して落ち着けば、そういうのもたぶんうまくいくのだろうと楽観していた。だんだん慣れていくのだろうと。でも残念ながら結婚したあとも、事情はあまり変わらなかった。夫の要求に従って、そういう夫婦の交わりを定期的に持ちはした。まあ、いろんな工夫をしてね。しかしそれは私に苦痛しかもたらさなかった。そしてやがてはそういう行為をおおむね拒否するようになった。言うまでもないことだけど、それも私たちが離婚するひとつの要因になった」
「何かその原因になるようなことは思いつく?」
「いいえ、とくに思い当たることはない。まだ小さな頃に、ショッキングな体験をして、それが精神的な重しになっているとか、そういうことでもないの。そんな経験はなかったから。同性愛の傾向もないと思うし、性的なものごとにとくに偏見を持っているわけでもない。ごく普通の家庭で、ごく普通に育ってきた、ごく当たり前の女の子よ。両親の仲はよかったし、親しい友だちもいたし、学校の成績も悪くなかった。月並みと言っていいくらい、どこまでも普通の人生だった。ただセックスという行為ができないというだけ。そこだけが普通じゃないの」
私は肯いた。彼女はグラスを持ち上げてウィスキーを小さく一口飲んだ。
私は尋ねた。「その問題について、これまで専門家に相談をしたことはある?」
「ええ、札幌にいたころ、夫に請われて二度ばかり心療内科で面談を受けたことがある。一度は夫婦で一緒に。もう一度は私一人だけで。でも役には立たなかった。というか、効果はなかった。それに他人に向かって、そういう込み入ったプライベートな話をするのは、正直なところ苦痛だった。たとえ相手が専門家だったとしてもね」
私はあの十六歳の少女のことをふと思い出した。その五月の朝に彼女が口にした言葉を、私はまだそのまま覚えていた。そのとき私は十七歳だった。彼女の声は、その息づかいは、まだ私の耳にはっきりと残っている。
「あなたのものになりたい」とその少女は言った。「何もかもぜんぶ、あなたのものになりたいと思う。隅から隅まであなたのものになりたい。あなたとひとつになりたい。ほんとうよ」
「がっかりした?」と彼女は私に尋ねた。
私は混濁した意識を急いで整理し、なんとか目の前にある現実に戻した。
「君が男女間の性行為に対して積極的な興味を持っていないことに、ぼくはがっかりしたか?」
「そう」
「そうだね、少しはしたかもしれない」と私は正直に答えた。「でも前もって打ち明けてくれて、それはよかったと思う」
「で、そういうことなしでも、これからも私と会ってくれるかしら?」
「もちろん」と私は言った。「君と会って、こうして親しく話をするのは楽しいから。そんなことができる相手は、この町にはほかにいない」
「それは私にとっても同じよ」と彼女は言った。「でも、あなたのために何もしてあげられないんじゃないかと思う。つまりその分野においては、ということだけど」
「その分野のことはとりあえず、できるだけ忘れるように努力しよう」
「ねえ」と彼女は打ち明けるように言った。「そのことについては、私だってすごく残念に思っているのよ。たぶんあなたが考えているよりもずっと」
「でも急がないでね。わたしの心と身体はいくらか離れているの。少しだけ違うところにある。だからあとしばらく待っていてほしいの。準備が整うまで。わかる? いろんなことに時間がかかるの」
私は目を閉じ、時間のことを思った。かつては──たとえば私が十七歳であった当時は──時間なんて文字通り無尽蔵にあった。満々と水をたたえた巨大な貯水池のように。だから時間について考えを巡らす必要もなかった。でも今はそうではない。そう、時間は有限なものなのだ。そして年齢を重ねるに従って、時間について考えることがますます大事な意味を持つようになる。なにしろ時は休むことなく刻み続けられるのだから。
「ねえ、何を考えているの?」と彼女が隣の席から私に尋ねた。
「ロシア五人組のこと」、私は迷いなく、ほとんど反射的にそう答えた。「どうして思い出せないんだろう? 昔はすぐに五人の名前がすべて言えたのに。学校の音楽の授業で教わったんだ」
「おかしな人」と彼女は言った。「今ここで、どうしてそんなことが気になるのかしら?」
「思い出せるはずのことが思い出せないと、気になるんだ。君にはそんなことはない?」
「私としては、思い出したくないことを忘れられないことの方が気になるかもしれない」
「人それぞれだ」と私は言った。
「そのロシア五人組の中にはチャイコフスキーは入っているのかしら?」
「入っていない。彼らは当時、チャイコフスキーの作る西欧風の音楽に反発してグループを結成したんだ」
我々はしばらく沈黙を守っていた。それから彼女がその沈黙を破った。
「私の中で何かがつっかえているみたい。そのせいで、いろんなことがうまくいかない」
「そうかもしれない。でも君はあとに一人で取り残されてはいない」
彼女は私の言ったことについてしばらく考えていた。それから言った。
「これからも私に会ってくれるということ?」
「もちろん」
「もちろん、というのがあなたの口癖みたいね?」
「そうかもしれない」
カウンターの上に置いた私の手に、彼女が手を重ねた。五本の滑らかな指が、私の指に静かに絡んだ。種類の異なる時間がそこでひとつに重なり合い、混じり合った。胸の奥の方から哀しみに似た、しかし哀しみとは成り立ちの違う感情が、繁茂する植物のように触手を伸ばしてきた。私はその感触を懐かしく思った。私の心には、私が十分に知り得ない領域がまだ少しは残っているのだろう。時間にも手出しできない領域が。
バラキレフ、と誰かが私の耳元で囁いた。試験問題の解答を隣の席からこっそり教えてくれる親切な友人のように。そうだ、バラキレフ。これで四人になる。五人組のうちの四人。残りはあと一人だ。
「バラキレフ」と私は口に出して言った。宙に文字を書き留めるようにくっきりと。そして隣の席を見た。でも彼女にはその声は聞こえなかったようだ。彼女は両手でしっかり顔を包み込むようにして、声を出さずに泣いていた。涙が、その指の間からこぼれ落ちていた。
私は彼女の肩に静かに手を置いて、長い間そこにとどめていた。涙が止まるまで。