街とその不確かな壁

村上春樹



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 その少女を住まいの前まで送って別れるとき、私はいつも「また明日」と声をかけた。考えてみれば意味のない言葉だ。だってその街には、正確な意味での明日など存在しなかったのだから。しかしそのことがわかっていても、私は彼女に向かって夜ごと、そう声をかけないわけにはいかなかった。

「また明日」と。

 彼女はそれを聞くといつもほのかに微笑んだ。でも何も言わなかった。何かを言いたそうに唇が僅かに開きかけることもあったけれど、結局言葉は出てこなかった。そして私にくるりと背中を向け、スカートのすそひるがえし、貧しい共同住宅の入り口に吸い込まれるように消えていった。

 そして私は、彼女との間にあった沈黙を思い返し(そう、沈黙こそが、私たち二人が肩を並べて川沿いの夜道を歩きながら、密接に共有したものだった)、その滋養を喉の奥にひそやかに味わいながら、ひとり家路につくのだった。そのようにして私にとっての街での一日が終わった。

「また明日」と、私は川沿いの道をたどりながら、よく自分に向かって声をかけた。そこには明日など存在しないことを知りながら。

 でもその最後の夜、私にはその言葉を口にすることができなかった。どのような意味合いにおいても、そこにはもう「明日」は存在しないのだから。

 代わりに私が口にしたのは「さよなら」というひとことだった。私がそう言うと、少女はまるで生まれて初めてその言葉を耳にしたみたいに、不思議そうな表情を顔に浮かべて、じっと私を見た。いつもと違う別れの挨拶が彼女を戸惑わせたらしかった。

 私も彼女の顔を、正面からまっすぐ見つめた。

 そして私は気がついた。気がつかないわけにはいかなかった。彼女の顔つき全体が、微かな変化を見せていることに。ここがこうという具体的な指摘はできないのだが、そこには間違いなくいくつかの細部の変更のようなものが見受けられた。その顔立ちの輪郭や奥行きが、まるで細かく波打つように、前とは僅かずつかたちを変え始めているのだ。振動のおかげで、トレースされた画像が原形から微妙にずれていくみたいに。それはほんの微かな、普通の人なら見逃してしまうであろうほどの変更ではあったけれど。

 私の「さよなら」という言葉が──いつもとは異なる別れの挨拶が──そのような変化を彼女のそうぼうにもたらすことになったのかもしれない。いや、そうではなく、そこで変わりつつあるのは、微妙な変更を受けつつあるのは、彼女の顔立ちではなくむしろ私の方なのかもしれない。私という人間の心が変容を遂げているのかもしれない。

「さよなら」ともう一度私は彼女に向かって言った。

「さよなら」と彼女も言った。まるでこれまで見たこともない食物を初めて口に入れる人のように、ゆっくり注意深く、そして用心深く。そのあと、いつもの小さな微笑みが口元に浮かんだが、その微笑みも今までと同じものではなかった。少なくとも私にはそのように感じられた。


 明日になって、私がもうこの街からいなくなってしまったことがわかったとき、彼女はいったいどのように感じるのだろう? いや、と私は思う、私がここからいなくなったときには、その少女もまたここから姿を消しているのかもしれない。彼女は私ひとりのために街が用意した存在であったのかもしれない。だから私がここから消えてしまえば、彼女も消えてしまう──それはあり得ることだった。そしてべつの誰かがイエロー・サブマリンの少年の〈夢読み〉を助けることになる。そう考えると、私はひどく切ない気持ちになった。自分の身体が半分透明になってしまったような気がした。何か大事なものが、私からどんどん遠く離れつつある。私はそれを永遠に失いつつある。

 しかしそれでも私の決心が揺らぐことはなかった。私はやはりこの街を出て行かなくてはならない。次の段階に移っていかなくてはならない。それが既に定まった流れなのだ。今では、私にはそのことが理解できていた。この街にはもう私の居場所はないのだ。私が収まるべき空間はなくなっている。いろんな意味合いにおいて。


 やがて少女は私の顔を見つめるのをやめた。そしていつものように私にくるりと背中を向け、スカートの裾を翻し、共同住宅の入り口に姿を消していった。闇に紛れる夜の鳥のように的確に素速く。そこに無駄な動きはなかった。

 私はそこに一人で留まり、彼女があとに残していった存在の名残を、長いあいだじっと見つめていた。その優美な像が徐々に薄らぎ、すっかり消えて、無が残された空白を埋めてしまうまで。

 家に向かう川沿いの道を私が一人で歩くとき、夜啼鳥が孤独な夜の歌をうたい、中州の川柳がそれに合わせるように細やかに枝を揺らした。いつもより川の水音が大きかった。春が巡ってきたのだ。


 その夜遅く、私とイエロー・サブマリンの少年は、私の意識のいちばん底にある暗い小部屋で顔を合わせた。私たちは小さな机を挟んで座り、机の上ではいつものように小さなロウソクが燃えていた。私たちはしばらくの間、そのロウソクの炎を沈黙のうちに見つめていた。私たちの無音の呼吸に合わせて、その炎は小さく揺らいだ。

「それで、じゅうぶん考えられたのですね?」

 私は肯いた。

「迷いのようなものはありませんね?」

「ないと思う」と私は言った。ないと思う。

 少年は言った。「それではここで、あなたとおわかれすることになります」

「もうきみに会うこともないのだろうね?」

「そうかもしれません。ぼくらが顔を合わせることは二度とないかもしれません。でも、ぼくにはわからないのです。誰になにが断言できるでしょうか?」

 私はイエロー・サブマリンのヨットパーカを着た少年をもう一度じっくりと眺めた。少年は眼鏡をはずし、指先で瞼を軽く押さえ、それからまた眼鏡をかけた。そうして眼鏡をかけ直す度に、彼は少しずつ前とは違う人間になっていくように私には思えた。言い換えれば、彼は刻々と成長を遂げているのかもしれない。

「申し訳ないのですが、ぼくは悲しみというものを感じることができないのです」と彼は打ち明けるように言った。「これは生まれつきのものなのです。でももしそうでなかったとしたら、もし仮にぼくが普通の人であったとしたら、ぼくはきっとこうしてあなたと別れることに、悲しみというものを感じているはずだと思うのです。もちろんそれはあくまでぼくの想像に過ぎませんし、悲しみがどういうものなのかぼくには知りようもないのですが」

「ありがとう」と私は言った。「そう言ってくれるだけで嬉しい」

 イエロー・サブマリンの少年はそれからしばらく沈黙を守っていた。それから言った。

「やはりぼくらは、もう二度と会えないかもしれません」

「そうかもしれない」と私は言った。

「あなたの分身の存在を信じてください」、イエロー・サブマリンの少年はそう言った。

「それがぼくの命綱になる」

「そうです。彼があなたを受け止めてくれます。そのことを信じてください。あなたの分身を信じることが、そのままあなた自身を信じることになります」

「そろそろ行かなくては」と私は言った。「このロウソクの火が消えてしまう前に」

 少年はこっくりと肯いた。

 私は胸に大きく息を吸い込み、ひとつ間を置いた。その数秒の間に様々な情景が私の脳裏に次々に浮かんだ。あらゆる情景だ。私が大切にまもっていたすべての情景だ。その中には広大な海に降りしきる雨の光景も含まれていた。でも私はもう迷わなかった。迷いはない。おそらく。

 私は目を閉じて体中の力をひとつに集め、一息でロウソクの炎を吹き消した。


 暗闇が降りた。それはなにより深く、どこまでも柔らかな暗闇だった。

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