街とその不確かな壁

村上春樹



22



 図書館に向かって歩いている途中で雪が降り始める。乾いた小粒の雪片、溶けるのに時間がかかりそうな雪だ。しかしそれが積もる雪になるかどうか、まだ判断がつかない。

 図書館に着いたとき、薪ストーブは普段通り赤々と勢いよく燃えている。その上で大きな黒い薬罐が湯気を出している。君は庭から摘んできた薬草を小さなすりこぎで潰している。手間のかかる作業だ。そのこりこりという辛抱強く均一な音が耳に届く。私が部屋に入っていくと君は作業の手を休め、顔を上げて小さく微笑む。

「もう雪は降り始めた?」

「まだほんの少しだけど」と私は言う。私は重いコートを脱ぎ、壁際のコートラックに掛ける。

「今夜はそれほどの降りにはならないはずよ。積もることはない」と君は言う。おそらくそのとおりになるだろう。いつものように。


 君の手で古い夢の埃が払われ、机の上に置かれ、私は読み始める。手のひらで包み込むようにして温め、活性化させる。古い夢はほどなく目覚め、そのメッセージを聴き取れない言葉で語り始める。

 古い夢──それは私の影が推測するように、こそげ落とされ、密閉保存された人々の心の残滓なのだろうか? 私にはその仮説の当否は判断できない。私の見る限り、そこにあるのは瓶詰めされた「混沌の小宇宙」でしかない。我々の心はこれほどまで不明瞭で一貫性を欠いたものなのか? あるいは古い夢がこのように細切れな混乱したメッセージしか発せられないのは、それがまとまりを持つひとつの心ではなく、「のこかす」の寄せ集めに過ぎないからなのか?

 私の夢に出てきた軍曹は、乾いた声で私に言った。「時には意識を殺すことが、なにより楽なことに思えるのです」


「この街を出て行くことになるかもしれない」と私は君に打ち明ける。君に黙ってここを出て行くわけにはいかない──たとえ街が今この会話に耳を澄ませているとしてもだ。

「いつ?」と君は尋ねる。とくに驚いた風もなく。

 我々は川沿いの道を並んで歩いている。私は君を、君の家まで送っている──いつもの夜と同じように。雪はもう降り止んでいる。雲が一ヶ所だけぽっかりと割れて、その隙間から星をいくつか目にすることができる。星たちは氷の粒のような、白く冷たい光を世界に投げかけている。

「近いうち、私の影が息を引き取ってしまわないうちに」

「そう決めたの?」

「おそらくそうなるだろう」と私は言う。しかし私の中にはまだ迷いがある。「でもそうなる前に、ひとつ君に話しておきたいことがあるんだ」

「どんなこと?」

「壁の外の世界で、ずいぶん前に君に会ったことがある」

 君は歩みを止め、緑色のマフラーを首のまわりにしっかりと巻き直す。そして私の顔を見る。「私に?」

「もう一人の君に──つまり壁の外にいる君に」

「それは私の影のことかしら?」

「おそらくそうだと思う」

「私の影はずっと昔に死んだ」と君は言う。今夜の雪は積もらない、と宣言するときと同じようにきっぱりと。

 君の影はずっと昔に死んだ、と私はその言葉を心の内で繰り返す。洞窟の奥のこだまみたいに。

 私は尋ねる。「影たちは死ぬとどうなるんだろう?」

 君は首を振る。「わからない。私は図書館の職を与えられ、定められた仕事をしているだけ。扉の鍵を開け、寒い季節にはストーブに火を入れ、薬草を摘んで薬草茶を作る……そうやってあなたの仕事を助ける」


 別れ際に君は言う。「あなたはもう図書館に来ないかもしれないのね。でも、どうやってこの街から出て行くの? だって門から出て行くことはできないでしょう? 街に入るときに、そういう契約を交わしたのだから」

 私は沈黙する。それを今ここで口にすることはできない。誰かが聞き耳を立てているかもしれない。

「外の世界にいる君と出会ったとき」と私は言う。「私は君に──彼女に恋をしたんだ。あっという間もなく。私はそのとき十六歳、彼女は十五歳だった。今の君と同じくらいの年齢だ」

「十五歳?」

「そう、外の世界の基準では、彼女は十五歳だった」

 我々は君の住居の前で立ち止まり、最後になるかもしれない会話を交わしている。雪は止んでいるが、凍える夜だ。

「あなたは壁の外の世界で、私の影に恋をした。そこでは彼女は十五歳だった」と君は自らに告げる。理解不能なものごとを、理解できないと改めて確認するかのように。

 私は言う。「私は彼女を強く求め、同じように彼女に求められたいと望んでいた。でも一年後のあるとき、彼女は突然姿を消してしまった。予告もなく、説明らしい説明もなく」

 君はもう一度緑色のマフラーを細い首に巻き直す。そして肯く。「仕方のないことよ。影はいずれ死んでいくものだから」

「彼女にもう一度会いたくて、この街にやって来た。ここに来れば会えるかもしれないと思ったんだ。しかしそれと同時に、君にも会いたかった。それも私がこうして壁の内側に入ってきたひとつの理由になっている」

「私に?」と怪訝そうな顔で君は言う。「でも、なぜ? なぜ私に会いたかったの? 私はあなたが恋した十五歳の少女じゃない。私たちはもともとはひとつだったかもしれないけれど、小さいときに引き剝がされ、壁の内と外とに離ればなれになり、別の存在になった」

 私は彼女の目をのぞき込む。山間の澄んだ泉の底を探るように。そして言う。「君は彼女じゃない。それはよくわかっている。ここでは君は夢も見ないし、誰かに恋することもない」


 そして彼女は共同住宅の入り口に消えていく。それはたぶん永遠の別れになることだろう。しかし君にとってはいつもと同じさよならでしかない。ここではすべてが永遠のものなのだから。

Table of contents

previous page start next page