街とその不確かな壁

村上春樹



23



 二十歳前後に巡ってきた出鱈目な時期を、ぼくはなんとか乗り越える。今思い返しても、そんな日々をよく無事に──まったく無傷とは言えないにせよ──通り抜けられたものだと自分でも感心してしまう。

 大学にも学業にも興味が持てず、授業にはろくに顔を出さなかった。友だちもつくらなかった。一人で本を読み、ときどきアルバイトをした。アルバイト先で何人かの男女と知り合って一緒に酒を飲んだりしたが、それ以上親しくはならなかった。でも何をしたところで心の安らぎは得られなかった。何かに関心を持つということができなくなっていたのだ。分厚い雲の中を放心状態で、ただ前に歩み続けているようなとりとめのない日々だった。すべてはきみを失ってしまったためだ。強い求めがかなえられなかったためだ。

 でもある日ぼくははっと目覚める。その覚醒の直接のきっかけが何だったのか、今となっては思い出せない。でもそれがごく些細な、ありふれたものごとであったことだけは間違いない。たとえば作りたてのゆで卵の匂いとか、断片的に耳に届いた懐かしい音楽とか、アイロンをかけたばかりのシャツの手触りとか……それが意識のどこか特別な部位を刺激し、ぼくをはっと目覚めさせてくれたのだ。そしてこう思った。ああ、こんなことをしていてはいけないんだ、と。

 このままこんな生活を続けていたら、身も心もぼろぼろになってしまうし、もしきみがいつかぼくの元に戻ってきたとしても、きみをうまく受けとめることができなくなっているかもしれない。そんな事態だけは避けなくては。

 ぼくは自分を正しい軌道に復帰させる。出席日数も足りなかったし、成績も当然ひどいものだったから、学年をもう一度繰り返すことになる。でもしかたない。それは支払うべき代償なのだ。生活を立て直す。講義に休まず顔を出し、熱心にノートを取る(それがどれほどつまらない講義に思えたとしてもだ)。空いた時間には大学のプールで泳ぎ、体力と体形を維持する。新しい清潔な服を手に入れ、酒量を減らし、まともな食事をとる。

 そんな生活を続けているうちに、自然に何人かの男女の友だちができる。ぼくは彼らに興味と好意を抱き、彼らもぼくに興味と好意を抱いてくれる。それはそれでなかなか悪くない。きみを辛抱強く待ち続けつつ、それとは違う段階で、当たり前の人並みの生活を送る術をぼくは身につける。

 やがてぼくに恋人ができる。同じ講義をとっていた一歳下の女子学生だ。性格が明るく、話をしていて楽しい。利発で、顔立ちもチャーミングだ。彼女はぼくの「復帰」を多くの面で支えてくれたし、ぼくはそのことに感謝する。でもぼくの内には常に一定の留保がある。きみだけのためのスペースを、心のどこかに保持しておかなくてはならない。

 誰かのための秘密のスペースを確保しながら、別の部分で他の誰かと恋愛関係を持つ──そんなことは可能なのだろうか? ある程度は可能だ。しかしいつまでも続けることはできない。だからぼくは彼女を傷つけ、その結果ぼく自身を傷つけることになった。そしてぼくは更に孤独になる。

 五年をかけて大学を卒業し、書籍の取次をする会社に就職する。故郷には戻らない。仕事の幅は広く、覚えるべきことはたくさんある。ぼくとしては出版社に入って編集現場の仕事をしたかったのだが、どの出版社も面接ではねられてしまった。大学での学業成績が思わしくなかったためだろう。でも書籍取次業ももちろん本を扱う仕事であり、本来の志とは少し違ってもそれなりにやりがいはある。そうしてぼくは社会人としてまずまず不足のない日々を送るようになる。仕事にも慣れ、次第に責任のある役割を与えられるようになる。

 でも女性との関わりについて言えば、ほぼ同じことの繰り返しだった。人並みに何人かの女性たちと交際したし、真剣に結婚を考えたこともあった。決して遊び半分でつきあっていたわけではない。でも結局のところ、彼女たちとの間に本当の意味での信頼関係を築き上げることはできなかった。そうできればよかったのだが、どの場合もうまくいかなかった。最後に何かが起こり、いつもぼくはしくじってしまった──しくじるというのが実にぴったりの表現だ。

 その理由はふたつある。ひとつにはぼくには常にきみがいたからだ。きみの存在が、きみの言葉が、きみの姿が、ぼくの心をどうしても離れなかった。ぼくはいつだって、意識の深い場所できみのことを考え続けていた。それがおそらくいちばん大きな理由だ。

 しかしそれと同時に、ぼくの中には一貫した怯えがあった。もし無条件で誰かを愛したとして、その愛した人からある日突然、理由も告げられず、わけもわからないままきっぱり拒絶されることになったら、という怯えだ。その女性は──かつてきみがそうしたように──何も言わず、ぼくの前から煙のように姿を消してしまうかもしれない。そしてぼくは一人であとに残される。空っぽの心を抱えて。

 何があろうと、再びそんな思いを味わいたくはなかった。そんな目に遭うくらいなら、一人で孤独に静かに暮らしていた方がまだましだ。


 日々の料理を自分で作り、ジムに通って体調を管理し、身のまわりを清潔に保ち、余暇には本を読む。規則性を重んじることが独身生活には何にも増して大事なことになる──規則性と単調さとの間に線を引くのは、ときとしてむずかしいものになるとしても。

 周囲には、ぼくの生活は自由で気ままなものに映ったかもしれない。たしかにぼくはそのような自由さを、日常の静けさをありがたく受け止めていた。でもそれはあくまでぼくという人間にしてなんとか受容できる種類の生き方であって、他の人にはきっと耐えがたいものであったろう。あまりに単調で、あまりに静かで、そしてなにより孤独で。


 しかし三十代を終え、四十歳の誕生日を迎えたときには、さすがにささやかな動揺があった。結局のところ誰と結ばれることもなく、このままひとりぼっちで一生を送るのだろうか? これから先、ぼくは着実に年老いていくだろう。そして更に孤独になっていくはずだ。やがては人生の下り坂を迎え、身体的能力も次第に失われていく。これまで意識もせず簡単にできていたことが、できなくなっていくだろう。そんな自分の未来の姿はまだ具体的には想像できないが、決して心愉しいものでないことは容易に想像がつく。

 四十歳……考えてみれば、十七歳のときからもう二十三年間にわたって、ぼくはきみを待ち続けていることになる。そのあいだ、きみからはまったく連絡がない。沈黙と無は、相変わらずぼくのそばにぴったり付き添っている。今では彼らの存在にすっかり慣れてしまった。というか、彼らは既にぼくの一部になっていた。沈黙と無……彼らを抜きにしては、ぼくという人間を語ることはできなくなっている。


 そのようにして四十歳の誕生日をこともなく(誰に祝われるでもなく)通過する。会社での仕事は安定したものになっている。地位もそこそこ上がり、収入にも不足はない(というか、何かを強く欲するということがぼくにはほとんどないのだ)。故郷の年老いた両親はぼくが結婚して、子供をもうけることを強く望んでいる。しかし気の毒だとは思うが、そんな選択肢は与えられていない。

 きみのことを変わらず考え続ける。心の奥の小部屋に入っていって、きみの記憶を辿る。きみのくれた手紙の束、一枚のハンカチーフ、そして壁に囲まれた街について綿密な記述が書き込まれたノート。ぼくは小部屋の中でそれらを手に取り、飽きることなく撫で回し、眺めている(まるで十七歳の少年のように)。その部屋にはぼくの人生の秘密が収められている。他の誰も知らない、ぼくについての秘密だ。きみ一人だけがそこにある謎を解き明かすことができる。

 でもきみはいない。きみがどこにいるのか知る術はない。


 四十五歳の誕生日が巡ってきて、そのあまり愉快とは言いがたい里程標を通過して間もなく、ぼくは再び穴に落下する。出し抜けにすとんと。以前──あの惨めな二十歳前後の日々に──足を踏み外したときと同じように。でも今回落ちたのは比喩的な穴ではなく、地面に掘られた実物の穴だ。いつどのようにしてその落下が起こったのか思い出せない。しかしたぶんただ単純に、そのとき踏み出した足がたまたま地面を捉えられなかったのだろう。

 意識が戻ったとき(とすれば意識は失われていたのだ)、ぼくはその穴の底に身を横たえていた。身体に痛みをまったく感じないところをみると、落下したのではないのかもしれない。そこに運ばれて置かれたのかもしれない。でも誰によって? それはわからない。とにかくぼくの身体は元あった世界から遠く離れた場所に移されていた。現実から遠く、遠く、遠く、遠く隔てられた場所だ。

 時刻は夜だ。穴の上方に長方形に切り取られた空が見える。空には多くの星が瞬いている。それほど深い穴ではないらしい。地上に上がろうと思えば、自分の力で這い上がることもできそうだ。それがわかって少しほっとする。でもぼくはひどく疲弊している。身体を地面から起こすことができない。手を上に挙げることもできないし、目を開けていることすらむずかしい。身体がばらばらにほどけてしまいそうなくらい、ぼくは疲れている。ぼくは──ぼくはゆっくり目を閉じ再び意識を失う。そして深い非意識の海に沈み込んでいく。


 それからどれほど時間が経過しただろう? 目を覚ましたとき、空はすっかり明るくなっている。小さな白い雲が風に流されていくのが見える。鳥たちの声も聞こえる。朝のようだ。きれいに晴れ上がった、気持ちの良さそうな朝だ。そして誰かが穴の縁から身体を乗り出すようにして、ぼくを見おろしている。頭をつるつるに剃り上げた、大柄な男だ。奇妙な衣服をだらしなく重ね着して、手にはシャベルのようなものを持っている。

「おい、あんた」と彼はぼくに太い声で呼びかける。「どうしてそんなところにいるんだね?」

 それが現実なのか夢なのか見定めるために、少し時間を必要とする。暑くもなく寒くもない。新鮮な草の匂いがする。

「どうしてこんなところにいるんだろう?」とぼくはとりあえず男の質問を繰り返す。

「そうだよ。俺がそう質問しているんだ」

「わからない」とぼくは答える。その声は自分の声に聞こえない。「ここはいったいどこなんだろう?」

「あんたの寝転んでいる場所のことかね?」と男は明るい声で言う。「どこから来たか知らんが、悪いことは言わん。早くそこから抜け出た方が身のためだぜ。そこは死んだ獣たちを放り込んで、油をかけて焼くための穴だからね」

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