街とその不確かな壁

村上春樹



24



 午後になって雪が降り始めた。風のない空から無数の白い雪片が音もなく街に落ちてきた。ゆっくり宙を舞う軽い雪ではない。雪片はそれぞれの堅い重みを持ち、つぶてのように直線を描いて地表に達した。

 私は住居を出て西の丘を降り、急ぎ足で門に向かった。道ですれ違う獣たちは背中に雪のかけらを凍りつかせ、諦めたように目を伏せ、白い息を吐きながら緩慢にを運んでいた。この数日、寒さは一層厳しくなり、餌になる木の実や木の葉はますます乏しくなっていた。更に多くの獣たちが命を失っていくことだろう。弱いものたちから順番に。

 北の壁の外には灰色の煙がいつにも増して太く、勢いよく強く立ち上っていた。門衛は今日も忙しく獣たちの死体を集めて焼く作業に取り組んでいるようだ。煙は空に向けて直線を描いて上がり、まるで巻き上げられる太いロープのように、厚い雪雲の中に吸い込まれていった。獣たちには気の毒だが、その死体の数が多ければ多いほど門衛の仕事は増えるし、そのぶん時間を稼ぐことができる。

 小屋に門衛はいない。しかしストーブは赤々と燃え続け、無人の部屋を温めている。作業台の上には、手斧となたが整然と並べられている。その刃は研ぎ上げられたばかりらしく、なまめかしく威嚇的に光り、台の上から無言のうちにこちらをにらんでいる。私は門衛小屋を通り抜け、「影の囲い場」を横切り、影の寝ている部屋に入った。

 部屋の匂いは前よりも重く、そこには死の予兆らしきものが漂っていた。部屋に入っていくと、板壁のいくつかの暗い節目が警告を発するように私を見た。「おまえの考えはわかっているぞ」と言うように。私の影は布団にくるまり、死んだように眠っていた。鼻の下に指を当てて呼吸を確かめ、彼がまだ死んでいないことを私は確認した。やがて影は目を覚まして、だるそうに身をよじった。

「決心はついたんですね?」と影は弱々しい声で尋ねた。

「ああ。今から一緒にここを出て行こう」

「今すぐ、ですか?」

「今すぐだ」

「もう来ないかと思いましたよ」と私の影は首だけをこちらに少し曲げて言った。「どうです、ひどい顔をしているでしょう?」

 私は影の瘦せこけた身体を抱えて起こし、肩を抱えるようにして外に出た。それから彼を背中に負ぶった。影に決して触れてはならないと門衛から注意されていたが、それはもうどうでもいいことだ。影はほとんど体重を持たなかったから、背負うのは困難なことではなかった。そうして身体を密着させているうちに、影は本体である私から生気を受け取り、少しずつ活力を回復していくはずだ。砂漠の植物が水分を必死に吸収するように。今の自分がどれほどの生気を影に分け与えられるものか、あまり自信はなかったが。

「そこにある角笛を持っていってください」と門衛小屋を抜けるときに、私の影が背中から言った。

「角笛を?」

「ええ、そうすれば、門衛が私たちのあとを追跡してくるのがむずかしくなる」

「ずいぶん腹を立てるだろうな」、私は生々しく光る手斧と鉈を横目で見ながらそう言った。

「でも必要なことなんです。この街は本気になればどこまでも危険になれます。それに備えなくちゃなりません」

 理由はよくわからなかったが、言われたとおり壁に掛けてあった角笛を手に取り、コートのポケットに入れた。長く使い込まれ、ほとんど飴色になった古い角笛だ。獣の単角で造られているようで、細かい彫り物が施されている。

「時間はあまりありません」と私の影は言った。「急ぎましょう、自分の足で走れなくて申し訳ないんですが」

「君を背負って街を横切れば、多くの人に目撃されそうだ」

「おれたちが一緒になって逃げたというのは、どうせすぐにわかっちまうことです。とにかく一刻も早く南の壁に着かなくては」

 影を背負って門衛小屋をあとにした。もう後戻りはできない。川に達して、旧橋を南に向けて渡った。ときどき雪片が目に入って前方が見えなくなり、獣たちにぶつかった。私がぶつかるたびに、彼らは小さな奇妙な声を上げた。

 降りしきる雪のせいもあり、通りを行く人の数は僅かだったが、それでも私たちは何人かの住民に目撃された。彼らはただその場に立ち止まって、我々の姿を黙って見ていた。この街では走っている人の姿を目にするのはきわめてまれなことだ。彼らはどこかに通報するのだろうか? 〈夢読み〉が影と再び一緒になって、街から逃げだそうとしているようだ、と。あるいはそんなことは彼らにとって何の意味も持たないことなのだろうか?

 この街に来て以来、運動というものをまったくしていなかったせいで、いくら軽いとはいえ、影を背負って街を走り抜けるのは容易たやすいことではなかった。私は堅く白い息を、音を立てて宙に吐き続けていた。吸い込む雪混じりの大気は冷たく、肺の内側が針先で突かれるように痛んだ。ようやく南の丘のふもとに到着したところで、私は呼吸を整えるために立ち止まり、背後を振り返った。

「まずいですね」と影が言った。「見てごらんなさい。獣を焼く煙がずいぶん細くなっています」

 影の言うとおりだ。降りしきる雪を通して、北の壁の向こうに見える煙は、先刻見たよりも明らかに細まっていた。

「きっとこの雪で、火が消え始めたんでしょう」と影は言った。「だとしたら、門衛は追加のなたね油を取りに小屋に戻ってくる。そしておれが囲い場からいなくなってることを知るでしょう。足の速い男です。ちっとばかりまずいことになる」

 影を背負って南の丘の急な斜面を登るのは、容易ではなかった。しかしいったん心を決めてやり始めたことだ。途中でを上げるわけにはいかない。そして影が言うように、街はそうなろうと思えばどこまでも危険になり得るのだ。私はコートの下に汗をかきながら斜面を登り続けた。なんとか丘のてっぺんまで登り切ったとき、両脚は石のようにこわばり、ふくらはぎが痙攣していた。

「悪いけど少しだけ休ませてくれ」と私は地面にしゃがみ込んで、息を切らして言った。それが時間との競争であることはわかっていたが、脚がほとんど動かない状態だった。

「いいからしばらくここで休んで下さい。おれが自分で走れないのがいけないんだから、あんたが気に病むことはありません。その角笛をちょいと貸してくれませんか?」

「角笛を? 角笛で何をするんだ?」

「いいから貸して下さい」

 私は訳のわからないまま、盗んできた角笛をコートのポケットから取り出し、影に手渡した。影はそれを口にあて、大きく息を吸い込み、力を振り絞るようにして吹いた。眼下に見える街に向かって長く一度、短く三度。いつもの角笛の響きだ。影がそれほど巧みに角笛を吹けることに私は驚いた。門衛が吹く音色とほとんど変わりがない。いつの間にそんな技術を身につけたのだろう。見よう見まねで覚えたのか?

「何をしたんだい、いったい?」

「ごらんのとおり角笛を吹いたんです。これで時間がしばらく稼げますよ」、そして影はその角笛を、すぐわかるように手近な木の幹に掛けた。「こうしておけば、門衛がこれを見つけて、取り戻すことができます。どうせこの道をたどって、おれたちを追ってくるでしょうからね。角笛が手に戻れば、少しは怒りがやわらぐかもしれません」

「しばらく時間が稼げるというのは?」

 影は説明した。「角笛を吹き鳴らせば、獣たちはそれを耳にして、集まって門に向かいます。そうなると門衛は門を開けて、彼らを外に出さなくちゃなりません。そしてすべての獣を外に出し終えてから門を閉めます。それが規則で定められた彼の仕事です。すべての獣を外に出し終えるまでには時間がかかります。それだけの時間をおれたちは稼げたってことです」

 私は感心して影を見た。「ずいぶん知恵が働くんだね」

「いいですか、この街は完全じゃありません。壁だってやはり完全じゃない。完全なものなどこの世界には存在しません。どんなものにも弱点は必ずあるし、この街の弱点のひとつはあの獣たちです。彼らを朝と夕に出入りさせることで、街は均衡を保っています。おれたちは今そのバランスを崩したわけです」

「きっと街は腹を立てることだろうね」

「たぶん」と影は言った。「もし街に感情みたいなものがそなわっているなら」

 指でふくらはぎを揉みほぐしているうちに、私の両脚はようやく柔軟性を取り戻したようだった。「さあ、出発しよう」、私は立ち上がり、再び彼を背中に負った。

 あとは下り道だ。私はひとまず回復した足でその坂を下った。時折上り坂もあったが、ほとんどは下りだった。足元に注意しなくてはならなかったが、もう呼吸が乱れるようなことはなかった。やがてはっきりした小径が消え、その先は判別のむずかしい踏み分け道になった。朽ち果てた小さな集落の前を通り過ぎる。雪は相変わらず降り続けていた。雪は私の髪に付着し、こわばった塊に変えた。帽子をかぶってこなかったことを私は少しばかり悔やんだ。空全体を覆う分厚い雪雲は、内部に無尽蔵の雪を含んでいるようだ。そして進むにつれ、溜まりの立てるあの奇妙な、むせ返るような水音が、途切れ途切れに耳に届くようになった。

「ここまで来れば大丈夫でしょう」と影が背後から声をかけた。「あそこの藪を横切れば、すぐ溜まりに出ます。門衛はもう追いつけません」

 私はそれを聞いてほっと一息ついた。これまでのところ、我々はなんとかうまくやり遂げたようだ。

 しかしそう思ったまさにそのとき、我々の前に壁がそびえ立った。


 壁はなんの前触れもなく、一瞬のうちに我々の前に立ちはだかり、行く手を阻んだ。いつものあの高く堅牢な街の壁だ。私はその場に立ち止まり息を呑んだ。どうしてこんなところに壁があるのだ? このあいだこの道を来たときには、もちろんそんなものは存在しなかった。私は言葉もなく、ただその高さ八メートルの障壁を見上げていた。

 おどろくことはない、と壁は重い声で私に告げた。おまえのこしらえた地図なぞ何の役にも立ちはしない。そんなものは紙切れに描かれたただの線に過ぎない。

 壁は自由にその形と位置を変更することができるのだ、と私は悟った。いつでも思うまま、どこにでも移動できる。そして壁は私たちを外に出すまいと心を決めている。

「耳を貸しちゃいけません」と影が背後で囁いた。「見るのも駄目です。こんなものただの幻影に過ぎません。街がおれたちに幻影を見せているんです。だから目をつぶって、そのまま突っ切るんです。相手の言うことを信じなければ、恐れなければ、壁なんて存在しません」

 私は影に言われたとおり、瞼をしっかり閉じてそのまま前に進み続けた。

 壁は言った。おまえたちに壁を抜けることなどできはしない。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じだ。

「耳を貸さないで」と影が言った。「恐れてはいけません。前に向けて走るんです。疑いを捨て、自分の心を信じて」

 ああ、走ればいい、と壁は言った。そして大きな声で笑った。好きなだけ遠くまで走るといい。私はいつもそこにいる。

 壁の笑い声を聞きながら、私は顔を上げずにまっすぐ前に走り続け、そこにあるはずの壁に突進した。今となっては影の言うことを信じるしかない。恐れてはならない。私は力を振り絞って疑念を捨て、自分の心を信じた。そして私と影は、硬い煉瓦でできているはずの分厚い壁を半ば泳ぐような格好で通り抜けた。まるで柔らかなゼリーの層をくぐり抜けるみたいに。そこにあったのはたとえようもなく奇妙な感触だった。その層は物質と非物質の間にある何かでできているらしかった。そこには時間も距離もなく、不揃いな粒が混じったような特殊な抵抗感があるだけだ。私は目を閉じたままそのぐにゃりとした障害の層を突っ切った。

「言ったとおりでしょう」と影が耳元で言った。「すべては幻影なんだって」

 私の心臓は肋骨の檻の中で、乾いた硬い音を立て続けていた。耳の奥にはまだ壁の高らかな笑い声が残っていた。

 好きなだけ遠くまで走るといい。壁は私にそう言った。私はいつもそこにいる。

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