街とその不確かな壁

村上春樹



56



 翌朝、玄関の引き戸を抜けて図書館に足を踏み入れたとき、そこが以前の図書館とは別の場所になっていることが私にはわかった。肌に触れる空気の質が変化し、窓から差す光の色合いが見慣れぬものとなり、様々な音の響き方が違っていた。子易さんがそこから存在を消してしまったせいだ──永遠に、完全に。しかしそのことを知るものは、おそらく私の他にはいない。

 いや、イエロー・サブマリンの少年は、あるいは知っているかもしれない。彼はいろんなことを直感的に知りうる人間だし、また子易さんとも親しく接触していた。だから子易さんの魂がこの世界から去っていったことを、自然に感じ取っているかもしれない。あるいは子易さんは──私に対してそうしたのと同じように──自分がもういなくなってしまうことを彼にじかに伝えているかもしれない。

 しかしもし私がその少年に何かを尋ねても、それに対する答えはおそらく返ってくるまい。彼は基本的に自分が語りたいことを、自分が語りたいときにしか語らないし、その語法もあくまで断片的であり、往々にして象徴的なものだ。彼との対話が成立するのは、彼がそれを望んだときに限られている。

 添田さんはどうやらそのことをまだ知らないようだった。少なくとも彼女はその朝私と顔を合わせても、とくに普段と違った素振りは見せなかった。いつもの穏やかな小さな微笑みを浮かべて、私に軽く挨拶をしただけだ。そしていつもの朝と同じように、定められた職務をきびきびと的確に処理し、パートタイムの女性に必要な指示を与え、来館者の応対にあたっていた。

 火曜日の朝だ。久しぶりの太陽が地上を明るく照らしていた。軒のつららが眩しく光り、凍りついた雪はあちこちでゆっくり解け始めていた。


 昼前に私は閲覧室に行って、室内を見回してみた。六人ばかりの利用者が机に向かって本を読んだり、書き物をしたりしていた。三人は高齢者で、三人は学生のようだった。老人たちは余った時間を読書することで潰し、若者たちは足りない時間と競争するかのように、筆記具を手にノートや参考書に向かい合っていた。しかしそこにはイエロー・サブマリンの少年の姿は見当たらなかった。普段彼が座っている席には白髪の太った男性が座っていた。

 私はカウンターに行って添田さんと話をした。いくつかの仕事の用件について打ち合わせをしてから、私はふと思いついたように尋ねてみた。

「今日はM**くんの姿は見えないようだね」

「はい、今日は来ていないようです」と添田さんはとくになんでもなさそうに言った。少年が図書館に顔を見せないこともときにはある。

 私は子易さんのことを何か尋ねてみようかとも思ったが、思い直してやめた。その場の直感で、彼のことはもうできるだけ語らない方がいいだろうと思ったからだ。去ってしまった魂はそっとしておいた方がいい。その名前もできれば口にしない方がいい。どうしてだか理由はわからないけれど、そんな気がした。墓地を訪れることも、しばらくは控えた方がいいかもしれない。


 イエロー・サブマリンの少年は、翌日も図書館に姿を見せなかった。またその翌日も。

 木曜日の昼前、少年の姿がやはりいつもの席に見当たらないことを知って、私は添田さんのところに行って尋ねてみた。三日も姿を見せないなんて、あの子はいったいどうしたんだろうね、と。

「またしばらく横になって寝たっきり、ということになったのではないでしょうか」と添田さんは言った。「熱心に本を読みすぎて、おそらくは頭脳のオーバーワークで」

「でも、前回のバッテリー切れから数えて、それほど日にちは経っていないようだけど」

 添田さんは眼鏡のブリッジを指で軽く押した。「ええ、確かにそうですね。いつもに比べて間隔が少し短すぎるような気がします」

「心配するほどのことはないのかもしれないけど、でも何日かあの子の姿が見えないと、なんだか気になってしまうんだ」

「そう言われれば私もいささか気になります。あとで母親に電話をして様子を聞いてみましょう」、添田さんは唇をまっすぐに結び、四、五秒考えてからそう言った。そしてやりかけていた仕事に戻った。


 昼休みのあと、私が仕事をしている半地下の部屋に添田さんが顔を見せた。

「昼休みに、あの子のおうちに電話をしてみました」と彼女は言った。「そして母親と話をしたのですが、どういうことなのかさっぱり要領を得ません」

「要領を得ない?」

「ええ、何を言っているのか理解できないのです。ずいぶん取り乱しておられるみたいで。何かが起こったみたいですが、それがどんなことなのか電話ではらちがあきません。おうちにうかがって話を聞いた方がいいかもしれません」

「そうだね」と私は言った。「添田さん、あなたが足を運んでみた方がいいと思う。しばらくかわりにカウンターに入っているから」

「わかりました。何があったのかちょっと様子を見てきます。あとのことはお願いします」

 添田さんは控え室に戻ってコートを着て、急ぎ足で図書館を出て行った。私は一階のカウンターで、一時間ばかり彼女の代役を務めていた。とはいっても暇な平日の午後だったので、私がやることはほとんどなかった。人々は暖かな閲覧室で、ただ静かに本を読んだり書き物をしたりしていた。


 添田さんが戻ったのは午後二時前だった。彼女は控え室に行ってコートを脱ぎ、それから頰をいくらか紅潮させて私の前にやって来た。そして緊張を含んだ声で言った。

「話を整理しますと、あの子はどうやら昨夜のうちに姿を消してしまったようです」

「姿を消した?」

「ええ、月曜日の朝から、いつものように高熱を出して寝込んでいたのですが、今朝早く部屋に様子を見に行くと、ベッドはもぬけの殻で、どこにも彼の姿は見当たらなかったということです。母親はすっかり取り乱していますが、話を総合すると要するにそういうことのようです」

「夜のあいだに彼は家から出て行ってしまったということ?」

 添田さんは首を振った。「そんなわけはないと母親は主張しています。M**くんはパジャマだけの格好で寝ていましたし、それ以外の服はいっさい持ち出していないということです。コートもセーターもズボンも、何ひとつ。つまり彼は夜のうちに、パジャマ姿でいなくなってしまったわけです。昨夜はずいぶん冷え込んでいましたから、そんな薄着で外に出られるわけはないし、もし出ていたなら今頃はきっと凍死しているはずだと彼女は言います。そして家の出入り口と窓は、すべて内側から鍵がかかったままになっていました。間違いなく。母親はとても用心深い人で、寝る前に必ず家内すべての戸締まりを確かめるのだそうです。つまり、彼がどこかの戸や窓を開けて、そこから外に出て行ったということは考えられません。にもかかわらず、あの子は消えてしまったんです。煙のように」

 私は頭の中でその話を順序立てて整理してみた。「だとしたら、家の中のどこかに身を潜めているんじゃないのかな?」

 添田さんはまた首を振った。「家中、隅から隅までみんなで探し回りました。床下から天井裏まで。でもどこにもその姿は見当たりません」

「不思議な話だ」と私は言った。「それで捜索願いみたいなのは出したのかな」

「ええ、警察にはすぐに届けを出したそうです。でもなにしろ子供がいないことがわかってからまだ数時間しか経っていませんし、今のところ誘拐とかそういう事件性もなさそうですし、もう少し様子を見て、それでもまだ行方がわからないようなら、またあらためて連絡してくれという程度の対応だったようです。そのうちにどこかからひょっこり姿を見せるんじゃないか、みたいな……」

 私としては腕組みして考え込むしかなかった。

「家の人たちは朝からずっと、自宅のまわりを歩き回って彼の姿を探し、近所の人に彼を見かけなかったかと尋ねたりしました。でも手がかりは何ひとつ見つかりませんでした。あの子はぴったり鍵のかかった家の中から、こつぜんと姿を消してしまったのです。それもパジャマ姿で」

「いつものあのイエロー・サブマリンのパーカも、あとに残したまま?」

「ええ、パジャマ以外の服は何ひとつなくなっていないと母親は断言しています」

 少年がもし家出みたいなことをしたのであれば、彼は間違いなくイエロー・サブマリンのパーカを身につけていったはずだ。私にはその確信があった。そのしっかり着込まれたくたびれたパーカには、彼の精神を落ち着かせる何らかの機能がそなわっているようだった。それがあとに残されていたというのは、彼が歩いて家から出て行ったのではないことを示している。つまり彼は夜のあいだに、パジャマ姿のまま──あるいは着衣が意味を持たないかたちで──どこかに移動していったのだろう。あるいは運ばれていったのだろう。どこかに……たとえば、あの高い壁に囲まれた街に。

 私は目を閉じ唇を結び、考えをまとめようとした。しかしいろんな感情が、私の内側でそれぞれの方向に散りぢりに吹き流されていくようだった。ひとつにまとめることはとてもできそうにない。


「それで」と添田さんは言った。「あの子の父親が、できればあなたとお話をしたいとおっしゃっているのですが」

「ぼくと?」と私は驚いて聞き返した。

「ええ、あなたにお目にかかって、じかにお話をしたいと言っておられます」

「もちろんそれはかまわないけれど、具体的にどうすればいいんだろう?」

「今日の三時くらいに、この図書館にお見えになるということですが、それでよろしいでしょうか?」

 私は腕時計に目をやった。

「わかりました。二階の応接室でお目にかかることにしよう」

 しかし少年の父親と対面して、いったい何を話せばいいのだろう? まさか「壁に囲まれた街」の話を持ち出すわけにはいかない。少年はこちら側の世界を離れて、その街のある「もうひとつの世界」に移行したのかもしれないなんて。

 子易さんが今ここにいてくれればいいのだがと私は切実に願った。彼の深い知恵と適切な助言を私はなにより必要としていた。しかしもう彼はおそらくこの地上のどこにも存在しない。どこかに永遠に消えてしまったのだ。壁の時計を見上げながら、私は深いため息をついた。


 三時少し過ぎに少年の父親が図書館にやって来た。添田さんが彼を二階に案内して部屋に入れ、私たち二人を引き合わせた。簡単な紹介がおこなわれ、私は名刺を渡し、彼も名刺をくれた。

 頭がほとんどはげ上がった長身の男だった。年齢は五十代半ばだろう、耳が上下に長く、眉毛が太く、頑丈そうな黒縁の眼鏡をかけていた。私の見る限り、顔の造作は見事なまでに左右対称だった。それが彼の顔立ちから受けた第一印象だった──正しく左右対称であること。背筋がまっすぐ伸びて姿勢が良く、いかにも意志が強そうだ。オーケストラの指揮者にすると似合いそうな風貌だ。幼稚園や学習塾の経営をしているということだが、おそらくこれまでの歳月、自信をもって様々なかたちの指揮にあたってきたのだろう。その顔立ちには、イエロー・サブマリンの少年と共通するところは見当たらなかった。

 父親は身体をねじ曲げるようにしてオーバーコートを脱いだ。その下はウールの格子柄の上着に、黒いタートルネックのセーターという格好だった。私は彼に応接セットの椅子を勧め、彼は肯いてそこに腰を下ろした。私は小さなテーブルをはさんで、彼の向かいの椅子に座った。

 添田さんがやって来て、私たちの前にお茶を置いた。それから一礼して部屋を出て行った。ドアが閉まると、私たちはしばし沈黙のうちに向き合っていた。私たち二人以外、部屋の中に誰もいないことを確認するかのように。それから父親が口を開いた。

「あなたの前にここの館長をしておられた子易さんとは、長年にわたって親しくさせていただきました。息子は以前からこの図書館に足繁く通っておりまして、子易さんにはずいぶんかわいがっていただいていたようです」

「子易さんが亡くなってしまって本当に残念でした」と私は言った。

 父親は少し不思議そうな顔をして私を見た。「あなたは子易さんのことをご存じだったのですか?」

「いいえ、残念ながらお目にかかったことはありません。私が着任した時には既に亡くなっておられました。ただいろんな人から生前の子易さんの話をうかがい、業績、人柄共にずいぶん優れた人物であったという印象を受けました」

「ええ、立派な方でした。この図書館を設立するために私財を投じ、尽力されました。この町に彼のことを悪く言うような人は一人もおりません。ただ……」と言いかけて、父親は少し言いよどんだ。そして頭を働かせ、適切な言葉を選んだ。「……ただ、なんと申しますか、その言動には少しばかり独特な面もありました。いくぶん風変わりと申しますか。とくに息子さんと奥さんを事故で亡くされてからは。と言いましても、それが何か具体的に問題になるようなことはありませんでしたが」

 私は曖昧に肯いた。

「今日このように突然ここにうかがいましたのは、息子のM**に関してのことです」と彼は言った。

 私はもう一度曖昧に肯いた。

 父親は言った。「添田さんから、おおよその経緯はお聞き及びになっていると思うのですが、息子が夜のうちに姿を消してしまったのです。最後にその姿を目にしたのは昨夜の十時頃で、今朝、七時前に家内が息子の部屋に様子を見にいくと、ベッドは無人でした。布団には人の眠っていたあとが残っていて、汗でぐっしょり濡れておりました。息子は夜のあいだ、ずっと高熱を出していたようです。しかしその姿は見当たりません。家内は息子の名前を呼びながら、うちの中を必死に探し回りました。私も一緒になって探しました。でもどこにも見当たりません」

 彼は黒縁の眼鏡をはずし、厚いレンズを点検するようにしばし眺めてから、元に戻した。

「家の中から出た形跡はありません。ドアも窓も内側からすべてしっかり鍵がかけられておりました。衣服もそっくり残されたままです。家内は息子の衣服を詳細に管理しておりますので、そのことに間違いはないと言っています。申し上げるまでもないことですが、この寒さの中、夜中にパジャマ姿で外に出て行くことはまず考えられません」

 父親は自分が口にした事実を反芻するかのように、しばらく沈黙していた。

 私は尋ねた。「つまりM**くんは夜のうちに、どんな方法だかはわからないけれど、何らかの方法をとってお宅から姿を消してしまった、そういうことなのですね?」

 父親は肯いた。「ええ、息子はまるで煙のように私たちの前から消えてしまったのです。そう言う以外にどうにも説明がつきません」

「彼が突然姿を消すというようなことは、これまでにはなかったのでしょうか?」

 父親は首を振った。「M**には、おそらくあなたもお気づきになったと思いますが、少しばかり特異な傾向が生まれつき具わっています。普通の子供とは言えませんし、奇矯な振る舞いに及ぶこともときとしてあります。しかしこれまでそういう、行方がわからなくなるといったような問題を起こしたことは一度もありません。日常の習慣をなにより大事にする子供でして、いったん習慣ができあがると、それを着実に守って生活を送っていきます。電車が固定された軌道の上を進んでいくみたいに、その習慣から外れることはまずやりません。習慣が乱されると混乱しますし、あるときには怒りだしたりもします。ですから、どこに行ったのか行方がわからなくなるというようなことは、これまで一度も起こらなかった」

 私は首を傾げた。「しかしずいぶん奇妙な出来事ですね。わけがわからないというか」

「ええ、まったくもってわけがわかりません。ろくに服も身につけず、靴も履かないで、鍵を開けた形跡もなく、どうやって外に出て行ったのでしょう? それも真冬の厳寒の夜に。もちろん警察にも連絡はしたのですが、ほとんど相手にもしてくれません。もう少し様子を見てくれというばかりです。そんなわけで、ひょっとしてあなたが何か事情をご存じないかと、わらにもすがるような思いで、ここにうかがったような次第です」

「私が?」

「はい、あなたは息子と話をされたことがあると耳にしたものですから」

 私は慎重に言葉を選んで答えた。

「ええ、たしかに一度か二度、M**くんと言葉を交わしたことはあります。でもそれは手振りや筆談を交えた、とても切れ切れなものでした。会話と呼べるようなまとまったかたちのものではありません」

「それでそのときは、M**の方からあなたに話しかけてきたのでしょうか?」

「ええ、そうですね。彼の方から話しかけてきました」

 父親はため息をつき、架空の焚き火にあたっているみたいに、大きな両手を身体の前でごしごしと擦り合わせた。

「こんなことを申し上げるのはまことにお恥ずかしいのですが、私はもう長いこと、何年ものあいだあの子とまともに話をしたことがありません。私が何かを話しかけても、返事は戻ってきませんし、あの子の方から話しかけてくることもありません。母親とは少しは言葉を交わすようですが、その内容はあくまで生活上の実際的なことに限られています。

 あの子がまともに口をきく相手といえば、子易さんに限られていました。その理由はよくわかりませんが、子易さんにだけは心を開いていたようです。そして子易さんもまた、M**のことを我が子のようにかわいがってくれていました。それは私たち両親にとってはありがたいことでした。そうやってあの子は、辛うじて外部の世界と接触を保っていたわけですから」

 私は肯いた。父親は続けた。

「息子と子易さんとの間でどのような会話がなされていたのか、それはわかりません。私もあえて知ろうとはしませんでした。二人だけの間のことにしておいた方が良いのではないかと思ったからです。しかし子易さんが一昨年の秋にきゅうせいされ、その結果唯一の話し相手を失い、M**は再びひとりぼっちになりました。高校にも進学せず、この図書館に日参して黙々と本を読むだけの日々が続きました。

 先ほども申しましたように、M**は人並みの生活を送るのに必要とされる多くの能力は不足していますが、それに代わる特別な能力を持ち合わせています。異様なばかりのスピードで次々に書物を読破し、大量の知識を頭に詰め込んでいくのも、その特殊な能力のなせるわざなのでしょう。しかしあの子がそのような作業を通して人生に何を求めているのか、私にはそれが理解できないのです。そしてそのような極端な行いが彼にとって有益なことなのか、それとも有害なことなのか、それもわかりません。

 子易さんはおそらく、そのあたりのことをある程度呑み込んでおられたのでしょう。そして息子のことを適切に指導されていたのかもしれません。でも子易さんが亡くなられた今、残念ながら誰に事情を聞くこともできません。

 そうこうするうちに……このようにあの子は私たちの前から姿を消してしまいました。夜中のうちに忽然と消え失せてしまったのです」

 私は黙って彼の言葉を待った。父親は少し間を置いて話を続けた。

「そして亡くなった子易さんのあとを継いで、あなたがこの図書館の館長に就任されました。家内が添田さんからうかがった話によりますと、どうやらあの子はあなたという人物に少なからず興味を惹かれていたようです。私が知りたいのは、あなたとM**がどのような話をなさったかということなのです。その内容は彼が今回失踪したことと、何かしら関係があるかもしれない。あるいは少なくとも、彼がいなくなったことについて、それが何らかのヒントを与えてくれるかもしれません」

 どのように答えたものか、私は困惑した。息子の身の上を真剣に案じている(ように見える)父親に向かって、まったくの噓をつくわけにはいかない。かといって事実をそのまま打ち明けるわけにもいかない。それはあまりに入り組んでおり、社会的常識からはいつだつしている。注意深くならなくてはならない。何を口にするべきか、そして何を口にすべきではないか。私は意識を引き締め、少しなりとも事実に近い言葉を探し求めた。

「私がM**くんに話したのはある種の寓話です。私はある街について語りました。それは言うなれば、架空の街です。細部に至るまでとても綿密にリアルにこしらえられてはいるけれど、あくまでいろんな仮説の上に成立している街です。正確に言えば、私は直接彼にそれを語ったのではありません。私はある人にそれを語り、彼は言うなればそれを又聞きしたのです。いずれにせよ彼はその街に強い興味を持ったようでした」

 それがそこで私にかろうじて語ることのできた「真実」だった。少なくとも噓ではない。

 父親はそれについてじっくり深く考え込んでいた。呑み込みにくい形のものを、なんとか喉の奥に呑み込もうとしている人のように。そして言った。

「母親の話によれば、あの子は何日もかけて机に向かい、とても熱心に何かの絵を、それとも地図のようなものを紙に描いていたということです。食事をとるのも、眠るのも忘れるほど夢中になって。それはその街に関係したことなのでしょうか?」

 私は曖昧に肯いた。「ええ、そうですね。たぶん彼はその街の地図を描いていたのだと思います。私の語った話から、その街の地図を描き起こしていたのだと」

「それで、あなたはその地図をごらんになったのでしょうか?」

 私はいくらか迷ったが、肯いた。噓をつくわけにはいかない。「ええ、その地図を見せてもらいました」

「それは正確な地図でしたか?」

「ええ、驚くほど正確に描かれた地図でした。私はただその架空の街の様子のあらましを話しただけだったのですが」

 父親は言った。「M**にはそういう才能も具わっていました。ばらばらになった細かい断片をほとんど一瞬のうちに組み合わせ、正確な全体像を起ち上げていく能力です。たとえば、複雑きわまりない千ピースのジグソーパズルを組み立てるのだって、あっという間に難なくやってのけます。まだあの子が小さな頃、そういう能力がすらすらと発揮されるところを私は何度となく目にしました。成長するにつれて次第に用心深くなり、そういう特別な力をできるだけ人目にさらさないよう努めていたみたいですが」

 それでも、誰かの生まれた日の曜日を言い当てる能力を発揮することだけは、なぜか抑え切れなかったようだが、と私は思った。

 父親は話を続けた。「こんなことをうかがうのは失礼にあたるかもしれませんが、正直なところ、あなたはどう思われますか? あなたが語られたその架空の街と、M**がこのように突然姿を消してしまったこととの間には、何か繫がりが存在するとお考えになりますか?」

「常識で考える限り、関連性みたいなものは見当たらないはずです」と私は慎重に言葉を選んで、父親の質問に答えた。「私がM**くんに語ったのは、あくまで想像上の架空の街のありようですし、したがって彼が描いたのは、実際には存在しない街の詳細な地図ということになります。私たちが交わしたのは、フィクションを基にしたやりとりです」

 常識で考える限り

 私としてはそうとしか言いようがなかった。しかしありがたいことに、この父親はおおむね「常識」によってくくられた世界に生きている人のようだった。だから息子がその「架空の世界」に実際に足を踏み入れていったというような発想はまず持てないはずだ。それは私にとっておそらく感謝すべきことだったろう。

「しかしM**は、とにかくその街に強い興味を持ったのですね。夢中になっていた、と言いますか」と父親は困惑した顔で尋ねた。

「ええ、そうですね、私の目にはそのように映りました」

「息子との会話の中で、あなたは彼にその架空の街の話をなさった。それ以外の事柄がそこで何か話題にのぼりましたでしょうか?」

 私は首を振った。「いいえ、他の話題はとくに出なかったと思います。彼が興味を抱いていたのは、その架空の街に関することだけでした」

 父親は黙り込んで、更に長いあいだ思案を巡らせていた。しかしその思案は紆余曲折を経ながら、どこにもたどり着けないようだった。私たちの目の前で茶が冷めていった。二人とも飲み物には手も触れなかった。やがて父親は諦めたように肩を落とし、大きく息をついた。

「私はどうやら世間では、M**に対して冷淡な父親だと思われているようです」と彼は打ち明けるように言った。「しかし言い訳をするつもりはありませんが、決して冷淡であったわけではありません。どのようにあの子と接すればいいのか、それがわからなかっただけなのです。あの子に近づこうと、私なりにできるだけの努力はしてみたのですが、どのように試みても反応らしきものは返ってきません。まるで石像に向かって話しかけているような具合でした」

 彼は手を伸ばして湯飲みを手に取り、冷えてしまった茶を一口すすり、少し眉をひそめてからちゃたくに戻した。

「そういう経験をしたのは、私にとってなにしろ初めてのことでした。うちには三人の息子がおりますが、上の二人はごく当たり前の男の子でしたし、学校の成績も良く、問題らしきものも起こさず、手間はほとんどかかりませんでした。こともなく成長し、新しい世界を求めて都会に出て行きました。でもM**は彼らとは生まれつきまったく違っていました。何かしら特別な、おそらくは貴重な資質を具えて生まれてきたことは理解できるのですが、それを親としてどう扱えばいいのか、どう育てていけばいいのか、皆目見当もつきません。

 いちおう教育者の端くれとして世間で通用してきた私ですが、恥ずかしながら、ことあの子に関してはまるで無力、無能でした。また何より心が痛んだのは、あの子が私という人間にまったく関心を抱いてくれなかったことです。同じ屋根の下に親子として暮らしながら、私が存在していることなど、まるで目にも入らない風でした。血の繫がりなど、あの子にとっては何の意味も持たないようです。正直言って、子易さんがうらやましく思えたこともあります。子易さんにあって私にないのはいったい何なのだろうと、しばしば思い悩んだものです」

 話を聞きながら、私はその父親に同情の念を覚えないわけにはいかなかった。私たちはある意味、同類なのかもしれない。考えてみれば、イエロー・サブマリンの少年が強く興味を抱いたのは、私という人間にではなく、私がかつて身を置いた街に対してだった。私はただ通路として素通りされただけの存在に過ぎないのかもしれない。私を前にしていても、彼の目に映っていたのは、ただその街の光景だったのだろうか?

「お忙しいところ、お手間を取らせてしまいました」と父親は腕時計に目をやって言った。「これから警察署に寄って、捜索をあらためてお願いしてこようと思います。それから私たちも今一度、心当たりの場所をいくつかまわってみることにします。もし何かお気づきになったことがあったら、連絡をいただきたく思います。差し上げた名刺に、私の携帯電話の番号が印刷されておりますので」

 彼は立ち上がり、また身体をぐいとねじるようにしてコートを羽織り、私に一礼した。

「あまりお役に立てなくて申し訳ありません」と私は言った。

 父親は力なく首を振った。

 私は彼を玄関まで見送り、それからいったん応接室に戻った。そして窓の外を眺めながらしばし物思いに耽った。いつもの瘦せた雌猫が庭をそろそろと斜めに横切っていくのが見えた。イエロー・サブマリンの少年がその親子を、飽きもせずに熱心に観察していた姿を私は思い出した。

 やがて添田さんが盆を手に部屋にやって来て、テーブルの上の茶碗を片付けた。

「お話はいかがでした?」と彼女は尋ねた。

「お父さんはずいぶんあの子のことを心配しているみたいだ。あまりお役には立てなかったけれど」

「たぶん誰かと向かい合ってお話をなさることが必要だったのでしょう。一人で不安を抱え込んでいると、やはりつらくなりますから」

「うまく行方がわかればいいんだけど」

「しかし夜のうちに姿を消してしまったというのは、どう考えても不思議な話ですね。ずいぶん冷え込んだ夜だったのに。とても心配です」

 私は黙って肯いた。そして添田さんが私と同じ不安を抱いているらしいことを感じ取った。少年はもう二度と我々の前に姿を現さないのではないか……彼女の物言いにはそうした響きが聴き取れた。

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