街とその不確かな壁

村上春樹



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 少年はやはり姿を現さなかった。

 少年の両親からの度重なる要請を受け、町の警察もさすがに本腰を入れて捜索に乗り出したが、結局これという手がかりは得られなかった。イエロー・サブマリンの少年の姿は、その小さな町のどこにも見当たらなかった。図書館にももちろん姿を見せなかった。駅に設置された防犯カメラの映像を調べても、彼が電車やバスに乗って町を出て行った形跡はなかった(そのローカル線とバスが町から出て行くための、ほとんど唯一の公共交通手段だった)。父親の表現を借りれば、彼は文字通り「煙のように」消え失せてしまったのだ。母親の知る限り、少年が家から持ち出した衣服や荷物はなかったし、現金を所持していたとしても昼食代程度の僅かな小銭に過ぎなかった。ただ首を捻るばかりだった。そのようにして二日が経過し、三日が経過した。

 彼がどこに行ったのか、少しでも見当をつけることができるのは、おそらくこの私だけだった。少年は一人で「高い壁に囲まれた街」への行き方を見つけて(どのようにして見つけたのか、それは私にもわからない)、そこに行ってしまったのだ。かつて私がそうしたのと同じように、彼自身の内側にある秘密の通路をくぐり抜け、別の世界に移動したのだ。

 もちろんそれは私の個人的な推測に過ぎない。根拠を示すことはできないし、論理立てて説明することもできない。しかし私にはわかっていた。少年は既にその街に移って行ってしまったのだ。間違いなく。その完璧なまでの姿の消し方を考えれば、ほかに説明のつけようがないではないか。彼は心から真剣に「街」に行くことを望んでいたし、求めていたし、おそらくは生まれつき具わった異様なまでの集中力が、彼にそうすることを可能にさせたのだろう。そう、言い換えるなら、彼は「街」にたどり着くための資格を具えていたのだ。かつては私自身も手にしていたはずのその資格を。

 私はイエロー・サブマリンの少年がその街に入っていくところを思い浮かべた。

 少年は入り口の門であの頑丈な体つきの門衛に会い、そこで影を引き剝がされ、眼を傷つけられることだろう。私がそうされたのと同じように。街は〈夢読み〉を必要としているし、彼はおそらく私の後継者としてすんなり受け入れられることだろう。そしておそらくは……いや疑いの余地なく、街にとって私より遥かに有能で有益な〈夢読み〉となるはずだ。彼はものごとの成り立ちを、瞬時に細部まで把握する特殊な能力を有しているし、それに加えて疲れること、飽きることを知らない強烈な集中力を持ち合わせている。そしてこれまでその頭に注入された膨大な情報によって、彼自身が既にひとつの図書館──いわば知識の巨大な貯水池──となっているはずだ。

 イエロー・サブマリンのパーカを着た少年が、あの図書館の奥で〈古い夢〉を読んでいる光景を私は思い浮かべてみた。彼の隣にはあの少女がいるのだろうか? 彼女はやはりストーブに火を入れ、彼のために部屋を暖め、その弱い眼を癒やすために、濃い緑色の薬草茶をこしらえてくれるのだろうか? そう思うと、私は淡い哀しみを覚えた。その哀しみは温度を持たない無色の水のように、私の心をひっそり浸していった。


 月曜日の朝遅い時間に自宅に電話がかかってきた。その日は休館日だったから、私はまだベッドに横になっていた。何時間も前から目は覚めていたが、起き上がる気にどうしてもなれなかったのだ。カーテンの隙間から明るい日差しが、まるで私の怠慢を責めるかのように、細長い一本の線となって部屋に差し込んでいた。

 自宅の電話のベルが鳴ることはまずない。この町には私に電話をかけてくるような相手はほぼ存在しないからだ。休日の朝の部屋に響くそのベルの音は、ひどく現実離れしたものに感じられた。だから私は受話器をとるために身を起こしたりはしなかった。どこまでも即物的なベルの音にただじっと耳を澄ませていた。十二回ほど鳴ってから、ようやくベルは諦めたように鳴り止んだ。

 しかし一分ばかり間を置いて、ベルは再び鳴り出した。ベルの音は前回より少しばかり大きく、鋭くなったように私には感じられた──おそらくは気のせいなのだろうが。十回ほど鳴らしておいてから、今度は私の方が諦めて起き上がり、ベッドを出て受話器を取った。

「もしもし」と女が言った。

 それが誰の声なのか、初めのうちはわからなかった。それほど若くもなく、それほど年取ってもいない女性の声だ。高くもなく、低くもない。聞き覚えは確かにあるのだが、その声とその声の持ち主の実体が結びつかなかった。しかしほどなく、頭の中でもつれた記憶がなんとか繫がり、それがコーヒーショップの女店主であることに思い当たった。

「おはよう」と私は言った。喉の奥から言葉を絞り出すみたいに。

「大丈夫? いつもと少し声の感じが違っているみたいだけど」

 私は軽く咳払いをした。「大丈夫だよ。ただ、なんだかうまく言葉が出てこなかったんだ」

「それって、たぶん一人暮らしが長かったせいよ。しばらく誰ともしゃべらないでいると、言葉がときどきうまく出てこなくなっちゃうのよ。何かが喉につっかえたみたいに」

「君にもそういうことがある?」

「ええ、そうね、たまにね。私はまだ一人暮らしの初心者だけど」

 短い沈黙があった。それから彼女が言った。

「今日の朝、見かけの良い二人の若い男性がお店にやって来た。コーヒーを飲みに」

「ヘミングウェイの短編小説の出だしみたいだ」と私は言った。彼女はくすくす笑った。

「それほどハードボイルドな話でもないんだけど」と彼女は言った。「その二人は正確に言えば、コーヒーを飲むために私の店にやって来たわけじゃなかった。私と言葉を交わすことが目的だった。コーヒーを注文したのはそのついでみたいだった」

「君と言葉を交わしたかった」と私は言った。「そこには、なんていうか、異性としての関心みたいなものは含まれているのかな?」

「いいえ、それはたぶんないと思う。残念ながら、というか。いずれにせよ、まあ、その二人は私には少しばかり若すぎたと思う」

「いくつくらいだったんだろう、その二人は?」

「一人は二十代半ば、もう一人は二十歳前後というところじゃないかしら」

「じゃあ、若すぎるというほどのことでもないだろう」

「どうもありがとう。ご親切に」と彼女は感情をほとんど込めない声で言った。

「それで、彼らと君はどんな話をしたんだろう? 異性としての関心を抜きにして」

「二人はね、実はあの〈水曜日の少年〉のお兄さんだったの」

「水曜日の少年?」

「ほら、あなたがいるときに突然店に入ってきて、私の生まれた日の曜日を教えてくれた、風変わりな男の子よ」

 私は持っていた受話器をもう片方の手に持ち替えた。そして呼吸を整えた。

「あの子のお兄さんたちが君の店にやって来た……。いったいどうして?」

「二人はいなくなった弟の行方を捜していたの。駅前に立って、プリントアウトしたあの子の写真を道行く人たちに見せて、この子をどこかで見かけませんでしたかと訊いてまわっていたのよ」

「そして君の店に入って、コーヒーを注文し、君にも同じことを尋ねた」

「そう、この少年をどこかで見かけませんでしたかって。で、見かけたことはあるって私は答えた。もちろん。そしてそのときに起こったことを簡単に説明した。彼は私の生年月日を尋ねて、私が教えると、それは水曜日だと言った。あとで調べてみたら、本当に水曜日だった。でもその出来事があったのは、彼が神隠しにあう前のことだった。だから捜索の役には立たなかったと思う」

「神隠し?」

「ええ、彼らが実際にその言葉を使ったのよ。弟は家からいなくなったけれど、それは家出とかそういうのじゃない。夜のあいだに突然、理由もなく姿を消してしまった。まるで神隠しにあったみたいに。彼らはそう言った」

「神隠しなんて、なんだかずいぶん古風な言い回しだ」

「でもこの山あいの小さな町には、言葉の響きが似合っているかもしれない」と彼女は言った。「もちろんあなたはきっと知っていたのでしょうね。あの子が姿を消してしまったことは」

「知っていた」

「で、私がその話をすると、二人は首を捻っていた。弟はとても人見知りをする性格で、外に出て知らない場所に入ったりするようなことはまずない。なのにどうしてその日、この店に入ってきたんだろうと。それで私は説明した。それはたぶんあなたが、つまり町立図書館の新しい館長さんが、カウンター席に座って作りたてのおいしいコーヒーを飲んでいたからだろうって。あなたが中にいるのを外からガラス窓越しに見かけて、中に入ってきたんじゃないかと。だってあの子はあなたになにか用事があったみたいだったから」

 どう言えばいいのかわからなかったので、私はしばらく黙っていた。

「ひょっとして私、余計なことを言ってしまった?」

「いや、そんなことはまったくない。ぼくがそこにいたから、それを目にしてあの子は店の中に入ってきたんだ」

 あるいは彼はその朝、そこまで私のあとをつけてきたのかもしれない。

 彼女は言った。「そしてそのついでに、私の誕生日の曜日を教えてくれた」

「誕生日の曜日を教えるのはいわば、あの子にとっての初対面の挨拶のようなものなんだ。彼なりの親しみを相手に示すための」

「かなりユニークな挨拶と言うべきよね」

「たしかに」

「そしてその二人のとても感じのいい兄弟は、自分たちのユニークな末の弟が、なぜあなたという新来の人物に対してかくも強い関心を抱くのか、理由を知りたがっているように見えた」

「あの子が関心を抱く相手は数多くはないようだから、きっと意外だったんだろうね。なぜこのぼくなのか、と」

「そうね。口ぶりからするとどうやら、あの子は二人のお兄さんたちに対しても、それほど関心は抱いていないようだった。同じ屋根の下で暮らしていても、親しく口をきくようなことはあまりなかったんじゃないかしら。あくまで私の個人的な印象に過ぎないけれど」

「君はなかなか観察眼が鋭そうだ」

「観察眼というほどのものでもない。でもこんな商売をやっていると、そういう勘みたいなのがだんだん身についてくるのよ。いろんな人がやって来て、いろんな話をする。私はただうんうんと聴いているだけ。話の内容はたいてい忘れてしまうけど、印象だけは残る」

「なるほど」

「そんなわけで、その二人の礼儀正しいハンサムな青年たちは、近いうちあなたに会いに、あなたの図書館を訪ねていくかもしれない。行方不明の弟を捜す手がかりを得るために」

「それはもちろんかまわないよ。二人と会って話をするのはね。ただ、捜索の役にはあまり立てないかもしれない」

「神隠しだから?」

「さあ、それはどうだろう」と私は言った。「でも話を聞いていると、そのお兄さんたちは、ずいぶん熱心に弟の行方を探し回っているみたいだね」

「二人は、弟さんが姿を消してしまったことを知って、すぐに東京から実家に帰ってきて、途方に暮れているご両親を手伝って、捜索にあたっているんだって。長男はしばらく休暇をとって、次男は大学を休んで。まだ手がかりみたいなものはなにも得られていないようだけど、とても熱心に真剣に捜索に取り組んでいるみたいだった。二人で力を合わせて。なんていうのかな、まるで何かの埋め合わせをするみたいに」

 まるで何かの埋め合わせをするみたいに。それはおそらく的確な表現なのだろう。それは少年の父親と話したときにも、私が内心うっすらと感じていたことだったから。

「ところで今日は月曜日だから、図書館はお休みよね?」

「そうだよ。だからこんな時間に家にいるんだ」

「そうだ、もうひとつ大事なことを言い忘れていたわ」と彼女はふと思い出したように言った。

「どんなことだろう?」

「焼きたてのブルーベリー・マフィンが、さっき入ったばかりなんだけど」

 私の頭に、湯気を立てているブラック・コーヒーと、柔らかく温かいブルーベリー・マフィンの姿がぽっかりと浮かんだ。その光景は、私の身体に確かな躍動をしてくれた。健全な空腹感が私の中に戻ってきた。ふらりと戻ってきた迷い猫みたいに。

「あと三十分ほどでそちらに行くよ」と私は言った。「だからブルーベリー・マフィンを二個とっておいてくれないかな。ひとつはそこで食べて、もうひとつは持ち帰りにして」

「いいわ。ブルーベリー・マフィンを二個とりおき。ひとつは持ち帰りで」

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